鹿島槍ヶ岳東尾根は、爺ヶ岳東稜などと同じく、積雪期だけしか登れないヴァリエーションルートのひとつである。2005年3月18日(金)から22日(月)にかけてカランクルンの山仲間8名(リーダーはHさん、男性3名、女性5名)で登った鹿島槍ヶ岳東尾根は、私が経験した国内外の登山のうち最も過酷なもののひとつであった。私が本格的な登山をはじめてから5年目、70歳のときのことである。
18日夜大阪を出発したHさんの車に23時、京都・近鉄竹田駅でピックアップしてもらい、名神、中央、長野道を走って豊科ICへ。3連休とも相俟って渋滞気味、途中で仮眠して19日の8時頃に大町温泉に着いた。大阪労山連盟がバスを仕立てて、東尾根ルート組(登山学校中級)と赤岩尾根ルート組(登山学校初級)の2パーティの鹿島槍登山隊を送り出しており、彼らは今朝早くそれぞれの登山口に到着して、すでにルートに取り付いているはずである。でも私たちは、初日は二ノ沢ノ頭あたりでの幕営になるだろうから慌てることはない。雪のない大町温泉で装備を整え、再び車に乗り込んでスタート地点の大谷原へ向かう。雪かきされた大谷原の駐車場には、たくさんの車が止まっていた。ここはスキー場からは遠く離れているので、これらの車は鹿島槍に入るパーティのものだろう。天気予報では連休中はおおむね天気に恵まれると言っていたが、鹿島槍頂上付近は雲に覆われていて見えない。
歩き始めてすぐ、左側の一段高くなった疎林のなかに故榊原さんの高校山岳部の山荘がある。2003年の3月にカランクルンのHさん、Kさん、Mさんと爺ヶ岳東稜に登攀したとき利用させてもらったことがある。たいへん立派なログハウスだった。榊原さんがなくなった今となっては、もう利用させてもらう機会もないだろう。
ノーマルルートの赤岩尾根方面に向かって林道を小一時間歩くと東尾根の取り付きがある。右手の土手の潅木に赤いテープがいっぱい付けてあるのですぐにそれとわかる。ここから右手の林のなかに入り、しばらく雪の急な支尾根を登ると東尾根の稜線に出た。高度をどんどん上げて行くにしたがい、雪が深くなる。青空がのぞいているが、時折強い風が吹く。小休止して行動食を食べたとき、私の手元から空のビニール袋が風に飛ばされ、あれよあれよと見ているうちにはるか下方の谷に落ちていった。少々後ろめたい気持でいたら、しばらくしてそれが風に乗ってちょうど私の目のまえに舞い戻ってきた。正確無比な自然のブーメラン現象に一同びっくり。
一ノ沢ノ頭で幕営
尾根が細くなり、急な斜面を登りきると一ノ沢ノ頭(2004m)である。風が強く、飛雪粒が舞い、頬に当たると痛い。ここから二ノ沢ノ頭までは1時間程度の行程だし、二ノ沢ノ頭は先行パーティで混雑しているだろうから、幕営にはまだ早い時間ではあったが、今日は静かなここで幕営することになった。一ノ沢ノ頭から一段降りたところのリッジのうえにスコップで2張り分の整地をする。リッジのうえのトレース部分を幕営用に占領してしまったので、あとからここを通るパーティはテントを避けて雪の急斜面を迂回しなければならない。テントの近くに立派な雪のトイレもつくった。
いざテントを建てようというとき、Mさんが「今日は大峰みたいなことはないでしょうね?」と。私たちが以前、奈良大峰山の厳冬期雪中登山をしたとき、4〜5人用テント2張りの予定だったところ、Hさんが持参したのは間違って1張りは2〜3人用だったため、ポールがテントに合わず難儀したのをからかったのだ。Hさんは「今回はちゃんと確認してきたから・・・」と自信満々。ところがテント袋には4〜5人用と書いてあり間違いがないのに、中身はなんと2〜3人用ではないか。Hさんは例によっておやじギャグを駆使してその場を取り繕っていたが、手も器用なHさん、テントにあわないポールでなんとか設営してこちらに3人が入ることになった。しかし、この手違いが翌日鹿島の頂上で、強風暗闇のなかテントを設営するとき、テントにあわないポールがかじかんだ手から滑落して1張りが設営できなくなってしまった「苦難」の伏線に繋がっていたとは、その時点では誰ひとり知るよしもなかった。
第一岩峰
翌日は、4時起床、6時出発。鹿島槍と爺ヶ岳はピンク色のモルゲンロートに染まっており、その神々しいまでの輝きに息をのむ。これから登る東尾根が行く手にせりあがっているのが見えた。でも、Hさんが今朝ラジオで聞いた気象情報では今晩、寒冷前線がこのあたりを通過すると言っていたらしい。鹿島槍の北峰から南峰の間は吹きさらしの釣り尾根であるから前線が到着するまでにそこを抜け、できたら冷池(つべたいけ)小屋付近の樹林帯に逃げ込みたい。
4人ずつ2組のコンテで進む。順調に進み、小一時間で二ノ沢ノ頭に達する。二ノ沢ノ頭にはたくさんの幕営跡が残っていて昨日、ここまで来てもいい幕営場所は得られなかっただろう。ここに泊まっていた最後の京都からのパーティが出発、私たちもあとを追った。途中、小さな岩峰で先行パーティが難渋していてロープを出したりしている。そのあとに京都パーティが順番を待っているので、渋滞がひどくなる。私たちはトレースの無い左側の急雪壁を登って、京都パーティの前に出た。そこから少し進むと、このルートの核心部の一つである第一岩峰が立ちはだかっており、ちょうど中級パーティが取り付いていた。京都パーティを追い越したとはいえ、私たちの前にはもうひとつ4人組のパーティが入っていたので、中級パーティの登攀を見ながら1時間ほど待つことになった。風もなぎ、前線到来の予報が信じられないくらい穏やかな陽気である。
やっと私たちの順番が来て、登りはじめる。ここは岩峰らしいがこの時期は雪壁になっているので、大部分はアイゼンが効く。Hさんがロープ2本を繋いでフィックス工作をした。セカンド以降のメンバーはこれにユマールをかけて攀り、時間を稼ぐ。私はこんなに長い急雪壁を攀るのはヒマラヤのアイランドピーク以来の経験なので、下を見ないようにして一歩一歩アイゼンを蹴り込み、ロープに縋って必死で体を引き上げた。攀り切ると、そこからは急な広い斜面がひろがっており、強風が吹き荒れていた。ほんの15分前に通過した中級パーティのトレースも、風で吹き消されている。ここらは今にも雪崩れそうな傾斜で、恐怖感が湧く。Hさんは、出来るだけ間隔を空けて進むよう何回も注意するが、気持に余裕がないせいか、どうしてもお互いくっついてしまう。そのうちに私はバランスを崩して2mほど雪面を滑落した。コンテをしているので前を歩いているメンバーのテンションですぐに止まったが、滑落のときは他のメンバーに身構えてもらうため大声を出すようにと注意される。
第二岩峰を巻く
まもなくアラ沢ノ頭のすぐ下の第二岩峰に着く。このルートのもうひとつの核心部である。ここは完全な岩場で、着雪が少なく黒い岩壁がむき出しになっていた。先行パーティが取り付いているが、かなり苦戦を強いられているようだ。岩峰の取り付きには2〜3パーティが順番待ちをしていて、私たちの番まではかなりの時間がかかりそうである。私たちのほんの少し前を歩いているはずの中級パーティのメンバーの姿が第二岩峰の上に見えたので、不思議に思ったHさんがコールをすると、順番待ちで時間がかかるので岩峰登攀をやめ、右の沢に懸垂下降して、岩峰を巻いて上がったとのこと。あわせて、バキッと音がして雪面にクラックが入ったから気をつけろとのアドバイス。Hさんは、前線通過をひかえて、時間を空費してこんな危険箇所でビバークするのは最悪の事態を招くとの判断から、同じく迂回作戦を決断した。25mの懸垂で一旦アラ沢の源頭に降り立ち、中級パーティがつくったトレースを追う。確かに雪面のあちこちにクラックが走っていて気持が悪い。露岩やハイ松の根っこにつかまりながらおそるおそる雪面を登り返し、急な草つきを越えて再び稜線に這い上がった。やがて第二岩峰をクリアーして稜線にのぼってきたのは、おそらく私たちが下から見あげたとき苦戦していたパーティだろう。私たちが順番待ちをして第二岩峰に取り付いていたら、さらに2〜3時間はかかっていたかもしれない。
ホワイトアウトと恐怖のナイフリッジ
すでに午後4時。私たちが上がったすぐのところに中級パーティがいて、今晩はここに幕営すると言って雪面を整地していた。彼らは、これから寒冷前線が通過することを知らなかったようだ。リーダーのKさんはここでの幕営の中止をただちに決断し、私たちと一緒に行動することになった。私たちもひと休みしたあと、彼らのあとを追いかける。まもなく、天狗尾根との合流点であるであるアラ沢ノ頭(2618m)に着いたが、このあたりからホアイトアウトの状態となり、すぐ前を歩くひとの姿がかすんでくる。10分前に歩いた中級パーティのトレースも風で吹き消されていて、どこが天地の境目かわからなくなってきた。唯一の目印は前を歩くひとが差し込んだピッケルの小さな穴だけである。ここのナイフリッジは冬には両側に雪庇ができる危険箇所らしい。幸か不幸かホワイトアウトのせいで眼下が見えないからいいようなものの、一歩でも踏み外したらコンテで繋いだ他のメンバーもろとも千尋の谷底へ滑落するのは間違いない。
幻覚症状
全神経を集中して一歩ずつ足を前に出しているうちに私は、1mぐらい左下の斜面にトレースがあるような気がしてきた。ナイフリッジのうえをバランスを失しないように一歩ずつ足を運ぶより、このトレースのうえを歩くほうが、よほど楽ではないかと何度そのトレースのほうに飛び降りようと考えたかわからない。その都度、わずかに残っていた理性がその誘惑を退けてくれた。今考えると、極度の緊張による疲労と、これまたその後の高所登山で経験することになる一過性の角膜翳(浸透圧の関係で角膜が濁り一時的に視力がなくなる症状で、高度障害症状のひとつと考えられている)とにより、幻覚症状に陥っていたと考えられる。
Hさんからは、前のひとと適当な間隔をあけろと何度も叱声が飛ぶ。一箇所に加重がかかると雪崩を引き起こすおそれがあるのだ。そろりそろりと足とピッケルで地面を探りながらひたすら前進すること2時間で、やっと鹿島槍の北峰(2842m)に到着した。すでにあたりは暗闇で、ヘッドランプに照らし出されるのはカチカチに凍った雪面だけである。
北峰からは左に90度折れ、吊尾根を南峰に向かうのだが、ホワイトアウトの暗闇のなか、方向感覚が失われ、あらぬ方向から声が聞こえて来た。先行している中級パーティの人たちの声であった。彼らはこれ以上進むことを断念し、ここで幕営の準備をしていたのだ。周りはすっかり暗くなり、風もさらに強くなってきた。メンバーの体力という観点からも、これ以上の行動は無理であるとHさんも判断し、私たちもここにテントを張ることになった。
1張りのテントで8名が一夜を過す
中級パーティのテントのちかくに、全員で雪の斜面を削って整地。風がだんだん強くなってきた。厚手の手袋をつけているものの、手がかじかみ思うように作業がすすまない。ポールを刺すときに強風でテントが吹き飛ばされそうになるので、数人がかりでまず大きいほうのテントを設営。なんとかそれを組み立てて、次に2〜3人用のテントの設営にとりかかった途端、かじかんだ手からポールが滑り落ち、暗闇の斜面のなかに消えてしまった。仕方がないので、Hさんは残ったポールを一本だけテントに通して、ツェルト代わりに被ることにして、Hさんともうひとりがそれに入った。他の6名は4〜5人用のテントに入り、一息つく。しかし、強風のなかでは小さいほうのテントはツエルトの役目も果たすことができず、結局、全員大きいテントに移ることになった。
テント1張りに8人が入ったので、もちろん汗まみれの下着を着替えることも横になることも、靴を脱ぐことすらできない。真ん中にガソリンコンロを置き、テントの周囲にザックを並べて全員その上に肩を寄せあって腰掛ける。この状態では本格的な食事の用意はできないので、お茶を沸かし、手持ちのラーメンと行動食を回し食べし、各自、ひざを抱えそのうえに頭を乗せて、うつらうつらしながらひたすら夜明けを待つ。外では風雪がひゅうひゅうと唸っており天幕をはたく。谷側に座った人は常に風に押され、山側に座っている人は吹き貯まった雪に背中を押されてだんだん真ん中の空間が狭くなってくる。最初のうちはSさんがときどきテントから這い出してテントのうえに積もった雪を払ってくれていたが、それも効果がなくなってしまった。一同、寒さに震えながら押し黙っているが、疲れ果てて声を出すことすらできないのだろう。あとでわかったことだが、このときメンバーのひとりは足に軽い凍傷を負い、水泡が出来たそうだ。靴ひもを締め付けたままでいたため、血行障害を起こしたらしい。
風がおさまってから出発
昨夜の中級パーティとの打ち合わせでは、朝5時に出発ということであったが、風はいっこうにおさまらず、5時出発は無理である。6時になり、あたりがほんのり明るくなってきた。やがて陽も射し、少し暖かくなったようだ。暖をとるため一晩中点けっぱなしにしていたガソリンコンロの燃料もちょうど無くなった。しかし、7時になり、8時になっても風はおさまらない。9時頃になると、帰路のバス出発時刻の関係がある中級パーティが撤収を始めた。同時に隣にテントを張っていた京都のパーティも動きはじめた。京都のパーティはテントのフライシートを飛ばされていた。
突風と突風との間隔は少し長くなったようだが、風そのものはまだまだ強い。Hさんの話によれば、黒部側からの強く冷たい風を受けながら主稜線を歩けば、右手、右頬あたりは凍傷に罹るおそれがあると。あとで聞いたことだが、中級パーティのリーダーKさんは右手指に軽い凍傷を負ったそうだ。
ここからの行程はノーマルルートである。幸い私たちのパーティは日程に余裕のあるメンバーばかりで、帰りの足の便の心配もないことから、下山が月曜日に延びても問題はない。Hさんは、気象情報によれば昼ごろには風もおさまると告げていたので、あわてることはないと慎重にかまえる。11時になり、風も少し和らいだようなので、いよいよ撤収にかかる。靴も履いたまま、ザックもほとんど昨日のままだから、作業は早い。
念のため、南峰まではコンテで出発。ひと晩中、座ったままの窮屈な姿勢で過したので、体がふらつき、お腹もすいていてスピードが上がらない。夏道では30分程度しか要しない吊尾根なのに、メンバーのアイゼンがはずれたりしたこともあって、1時間30分もかかって南峰頂上(2889m)へ到着。いつのまにか風はおさまり、穏やかな春山の光景に変わっていた。前線の通過で空気中の塵埃や靄が払われ、四囲の山並みがクリアーカットされた様に息を呑む。なかでも圧巻は、黒部川をはさんで白銀に輝く剱岳の峨々たる威容であった。
長い赤岩尾根をよろけながら下山
布引山を越え、冷池小屋の前を過ぎ、冷池乗越から赤岩尾根の頭への急登にさしかかる。以前私は後立山を縦走したことがあり、夏道は冷池乗越からトラバースして赤岩尾根に入るのだが、積雪期ではここは雪崩事故の多く発生するところ。面倒でも一旦赤岩尾根の頭まで登り、そこから急な雪壁をまっすぐ下るのが鉄則である。歩きながらHさんから、30年前ここで起きた痛ましい遭難事故の話を聞かしてもらった。1974年3月、ここで西淀川労山の4名が死亡するという遭難事故が発生し、これが大阪労山救助隊発足の契機となったという。たまたま今回の山行に出発する直前、Hさんは西淀川労山前会長の西村さんから事故の詳細を記した報告書をみせてもらう機会があったらしい。それによると事故の概要はこうだ。
西淀の3人パーティが鹿島槍登山を終え、鉄則である赤岩尾根の頭からまっすぐに下降。ほぼ急雪壁下降を終えたとき、夏道をトラバースして近くまできた北大の2名パーティが雪崩を誘発し、西淀の1名を巻き込んで北股の方へ滑落した。残った西淀の2名が救援を求め、翌日、大阪から救援隊が駆けつけた。救援隊2名は雪崩の跡を下り、西淀の1名の死亡を確認。さらに下の雪洞に北大隊2名が生存しているのを確認した。救援隊の1名は北大隊に付き添ってビバーク。1名は前進基地が設けられた高千穂平に連絡に戻る。翌日、北大隊生存者の救出と西淀隊死亡者の遺体の搬出を目指して、救援隊が現場に向かう。このときまた雪崩が発生し、救援隊のうち3名が死亡するという痛ましい二重遭難事故となった。
私たちは赤岩尾根の頭に立った。急斜面を見下ろすと、実際の角度に自分の身長分が加算されるのでほとんど垂壁に見える。思わず足がすくんだ。百戦錬磨のHさんの表情にも厳しさが窺える。そこで全員再びハーネスにロープを着け、Hさんが最後尾で確保しながら、サブリーダーのSさんを先頭に他のメンバーはカラビナスルーで下るという方法が採られた。Sさんが無事降りたあと先頭の2名が下降終了点近くで滑って2mほど滑落した。しかし、すぐに停まり大事には至らなかった。高千穂平には初級パーティの幕営跡があった。ここを過ぎたあたりで日没となり、真っ暗になる。
もう危険箇所もなく、トレースがデコボコに凍った雪道を延々と歩くだけだ。しかしこれは意外と体力を消耗する。私は昨晩はほとんど眠れず、しかも食べ物もわずかしか口にしていないので、極度の疲労感に襲われてきた。体がふらつき、急なくだりでは足の踏ん張りが利かなくなる。歩くスピードが極端に落ち、とうとうリーダーのすぐ後ろを歩かされる羽目になった。風も無く、月明かりがルートを照らす。体のなかに残っている最後のエネルギーを絞りだすような思いで一歩一歩足を前に出す。意識が薄れたまらず立ち止まると、その都度後ろから「停まったら駄目っ!」と母親的叱声が鋭く響いた。
西股出合の河川敷に降り立ったときは午後10時を過ぎていた。ここからは水平道であるから、各自、自分のペースで歩くことになり、隊伍が長くバラけてきた。車道は昼間の雪解け水が凍結しており、私は2度滑って仰向けにひっくり返った。そのつど背中のザックがクッションになり、このまま眠ることができたらさぞ楽だろうなと思ったほどだ。全員が大谷原の駐車場にたどり着いたときはすでに24時を回っていた。なんとか助かった、というのがそのときの私の偽らざる心境であった。
(2005.3)
●坂田晃司の晴登雨読人コラムは今回が最終回です。長い間ご愛読どうもありがとうございました。●
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。