第一回(1)
明治は遠くなりにけり、されど近きにあり
丁丑(ていちゅう)とは、干支(えと)で明治10年のことである。感旧とは懐旧とほぼ同義語で、ある種の感懐をもって往時を振り返る、とでもいう意味であろう。「丁丑感旧」という用語は、明治10年(1877)に勃発した西南戦争に関する記録の表題や碑文に、主として薩軍の側からのものに使われている。用語のことをいえばほかに「・・・血涙史」、「・・・終焉悲史」、「・・・感旧録」などの命名もある。いっぽう、官軍の側からの記録等には「西南征討」、「・・・擾乱」、「・・・征西記」、「・・・従征記」、「薩賊」、「士族反乱」等の用語が使われているものが多い。世の中の対立においてはすべからく、「名分」が争われる。戦争においても、然り。勝者の言い分が「正義」となり、敗者は「賊」となる。西南戦争関係の記録等の表題にも、130余年の隔世が感じられるのはもちろんのこと、両者の立場、境遇があらわれており、興味ふかい。
西南戦争は、薩軍による熊本城包囲にはじまり、田原坂、吉次峠、高瀬、山鹿、木山・御船、球磨川流域など激戦の大部分が熊本県内を舞台に繰り広げられた。また、鹿児島県以外で薩軍側に参戦した勢力は熊本県下からが最も多く、薩軍の戦力の有力な一角を占めていた。これらの事実から、熊本県出身の私にとっては、西南戦争はもともと遠い存在ではなかった。幼少の頃住んでいたところが古戦場の近く(薩軍の兵站病院が川尻から移されてきた現上益城郡益城町)であり、古老たちから西南戦争の身近な見聞を聞いたり、「雨はー、降ーうる降る」の民謡「田原坂」を口ずさみながら育ったこともあり、西南戦争はむしろ、皮膚感覚で捉えることのできる身近な存在だった。とくに、済々黌の前身である同心学舎を創立した佐々友房が、実は熊本士族隊の第一小隊長として西南戦争に身を投じ奮戦した人物であったという因縁から、私の西南戦争への思い入れはますます強まった。加えて、済々黌高時代に同級だった池辺三郎君の曾祖父池辺軍次翁(当時48歳)とその子息源太郎翁(つまり池辺君の祖父、当時18歳)は熊本士族隊のなかのおそらく最年長と最年少の親子参戦者であって、かつ、熊本士族隊の大隊長であった池辺吉十郎は軍次翁の血族であることを知った。極め付きは、最近、同じく済々黌高の同級である財津 章君の祖父財津永喜翁が熊本士族隊の第十三小隊長であり、その部下が、伊倉・寺田(田原坂の西隣)での戦闘で、源太郎隊士が九死に一生を得たエピソード(これについては後述するが、「エピソード」という語は、この劇的な場面を表現することばとしては平凡過ぎる!)の場面に遭遇していたという事実を知った。永喜翁の子息永記氏(つまり財津君の尊父)が西南戦争について生前書き残していた記録が最近、財津君の家で見つかり、そのことが明らかになったのである。もうこうなったら、西南戦争は私にとって他人事ではなくなってしまった。爾来、郷里に帰省する都度、図書館や古書店などで関係文献を渉猟したり、ゆかりの地を訪ねたりして、「丁丑感旧」の同志の末座に加わることになったのである。
犬も歩けば棒にあたる
今回の帰省時(2009年5月)にも、関係先を精力的に動き回った。まず、古書店巡りでは、お目当ての佐々友房著「戦袍日記」のほか、古閑俊雄著「戦袍日記」、「西南戦争 戦袍日記写真集」(古閑日記をもとに編集した古戦場の写真集)、「西南戦争資料集」(従軍した熊本隊員3名の日記を収録したもの、もちろん、これらはすべて復刻版)等を入手した。このほか、地元の郷土史家の著作や研究資料等も入手した。ちなみに古閑俊雄は、佐々と同年配の同志で、熊本隊の軍監をつとめた人物である。昭和60年ごろになって発見された、彼が獄中で書き記した「戦袍日記」は、佐々の同名の「戦袍日記」といわば表裏一体をなす貴重な記録といわれている。帰路立ち寄った博多の古書店では、宇野東風編「硝煙弾雨 丁丑感旧録」を見つけた。この本のなかにも、先述のエピソードが描かれており貴重な文献ではあるが、すでに熊本県立図書館でこの文献の関係箇所をコピーしていたこともあり、1万五千円也の値札に躊躇し、図らずも胆力のなさを露呈。このほか、図書館で、関係資料に目を通し、メモを取ったり、コピーしたりした。
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。