茶目っ気たっぷりな榊原さん(月例ハイキングにて)
榊原さんは、私が所属する「山の会 カランクルン」の会員で、2003年10月7日にヒマラヤのチョラチェ峰(6440m)で仲間と二人で登攀(とうはん)中遭難し、不帰の人となった。
私がこの会に入会したのがその前年のことだったので、榊原さんとの付き合いは1年あまりしかない。山の会の例会山行で2〜3回と、有志山行で前穂高岳北尾根に一緒に登ったことがあるだけである。しかも、当方は年齢が榊原さんより20歳近く年長であるうえに山ではまったくの新米、一方、榊原さんは国内はもちろん海外登山でもネパール・ヒマラヤのダウラギリ1峰(8167m)、中国・チベットのチョーオユー峰(8201m)、カラコルムのナンガパルパット峰(8126m)など8000m級の高峰をはじめヨーロッパ・アルプスのほとんどの岩峰群を登頂している経験豊富な、わが国の登山界ではかなり名の売れたヴェテランだったので、私にとっては、まさしく「高嶺の花」的存在であった。
しかし、榊原さんは、その性格は実にシャイなひとで、自分の技量や実績を誇示するようなことは皆無であり、初心者の老人に対しても、他の近しい仲間たちに対するのとまったく変わらない態度で接してくれた。何事も控え気味でありながら榊原さんには茶目っ気があり、飄々とした態度、独特な下町東京弁の言い回し等と相俟って、仲間には人気があった。長身痩躯、職業がレザー服装品のデザイナーという芸術家的雰囲気からは登山家というイメージは感じられず、独身ということもあってか、特に女性たちには人気があった。私には、自分の価値観をただ一点に集中し、かつ、生と死のぎりぎりの狭間に身を置いた者のみに漂う、何か凛としたようなものがその深奥には感じられた。
仲間たちは榊原さんのことを、暖かい眼差しのひとだった、青空を流れる雲のようなひとだった、自己完結型自由人だった、弟のようなあいつだった、などと追悼集のなかで語っている。東京生まれの東京育ちでありながら、仕事の関係で大阪では「わび住まい」していた榊原さんは、「居候」の名人でもあった。宿舎が近かったこともあり、カランクルンの事務局長のHさん一家にHさんの弟分として、事実上「住み着いて」いたようだ。詩吟の師匠であるHさんのお母さんから詩吟の手ほどきを受けたのもこういった関係があったからであろう。私が2002年に初めてヒマラヤのアイランドピーク(6160m)に挑戦したとき、たまたま榊原さんはほかのパーティーを引き連れてカトマンズを訪れており、カトマンズ空港でルクラへの飛行機に一緒に乗ることになった。このとき初めて榊原さんと親しく話をする機会があった。このあと、ナムチェバザールでも一緒になり、私が「高度障害」の症状で苦しんでいるとき、バッティ(茶館)で隣に座っていろいろ労わってくれた。このひとはさりげなく気配りをする、心の温かいひとであるなと感じたものである。
突然の訃報に接したとき、最初は誰もそれを信じようとはしなかった。事実であることを受け容れざるを得なくなったときの私たちの衝撃と悲嘆は、計り知れないものがあった。失ったものの大きさに打ちのめされ、みんなそれぞれの心のなかでそれぞれの榊原さんへの思いを紡ぐことで辛うじて寂しさを凌いだ。
「お別れの会」では、私はカランクルンの中で最年長ということで献杯の音頭取りを仰せつかった。次はそのときの「献杯の辞」である。
『榊原さんが、無言の帰還をされましたことは、ご遺族はもちろんのこと、私ども山仲間にとりまして、痛恨極まりないことであります。哀悼のまことをどう表すか未だにその術を見出しえないのが実情でございます。榊原さんは生前、詩吟を嗜んでおられました。そこで、御霊に届けかしと願い、僭越ではございますが、訃報に接したとき胸中に忽然と湧き出た即興の漢詩一編をご霊前に手向け、哀悼のまこととさせていただきます。もとより稚拙な詩作ではございますが、榊原さんへの思いに免じてお赦しを賜りたいと存じます。
謹捧雲表之勇者榊原義夫兄之霊 謹んで雲表の勇者榊原義夫兄の霊に捧ぐ
鎮魂之賦 鎮魂の賦
勇者遠征復不還 勇者は遠征して ふたたび還らず
悲哭啾啾憶不尽 悲哭しゅうしゅう憶(おもい)は尽きず
君作絶峰悠久棲 君は絶鋒を悠久の住みかとなすも
請従蒼穹導群鶴 願わくば蒼穹より群鶴を導かれんことを
蛇足ながら、「群鶴(ぐんかく)」とは、毎年ヒマラヤの空に飛んでくる、アネハ鶴という渡り鳥のことであります。地元の人々は、その鳴き声から、アネハ鶴のことをカランクルンと呼んでいるそうです。私たちの山の会の名前も、実はこの呼び名に由来しております。したがって、結句は、榊原さんに天の一角から、渡り鳥たちが8000mの頂を越えて無事南の越冬地にたどり着けるように導いて欲しい、同時に、私たち「山の会 カランクルン」のともがらの山行を温かく見守っていただきたいという願いを込めたものであります。それでは、献杯に移らせていただきます。〜こよなく山を愛し、国内外の多くの仲間から敬愛されて已まなかった、故榊原義夫さんの御霊の安らけくあらんことを念じ、ご霊前に杯を捧げます。献杯!』
あれから毎年10月、命日の前後に、ご遺族を交えて「榊原さんを偲ぶ会」が大阪で開かれている。生前榊原さんと親しかった山仲間たちが一夕を共にし、榊原さんの遺影の前で思い出を語り合う。詩吟仲間によって前出の「鎮魂の賦」も朗吟される。榊原さんは、私たち一人ひとりの心の裡にしっかりと生きているのだ。
ネパールの北西部にムクチュナートというラマ教とヒンズー教の共同聖地がある。榊原さんが2回も登頂したダウラギリ峰の見える、そこの小高い丘のうえに1周忌を機に建立された榊原さんのケルン(慰霊碑)には、「ヒマラヤを愛し友に愛された榊原義夫 カランクルンになって再び舞い上がれ」と記されている。山男は、その栄光によってよりも悲劇によってより静かに、より深く、そしてより長く、人びとの心に刻まれるものだ。
(2008.10)
前穂高岳・北尾根を攀る(のぼる)榊原さん(写真・一番上)私も一緒に攀った(2003年春)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。