谷川岳の垂壁群
谷川岳は、2000mにも達しない標高ながら、ご存知のとおり、これまで800人を超える岳人の命を飲み込んだ恐ろしい山である。その数は世界でも群を抜いており、「魔の山」、「墓標の山」など不吉な代名詞で呼ばれる所以だ。もちろんこれらの犠牲者の殆どは、一ノ倉沢をはじめとする東面岩壁群での墜落死によるものであるという。
谷川岳は、川端康成が小説「雪国」の冒頭で描いた「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」その清水トンネルの真上にある山である。表裏日本の分水嶺となっている谷川岳の上空には、裏日本の湿豪雪と表日本の乾燥した強風とが混ざり合ってつねに渦巻いており、とくに冬季では気象の不安定、天候の急変で有名である。谷川岳が本格的な登攀の対象となったのは比較的遅く、1920年以降といわれる。その主な理由は、交通の便が悪かったからである。清水トンネルが開鑿され、上越線が開通したのは昭和6年になってからであり、それまでは関東側からも、越後側からも大きく迂回しなければならなかった。上越線の開通により東京から夜行で発てば早朝土合に着くことができるようになり、谷川岳は「近くてよい山」となった。そのため登攀者が急増し、クライマーたちはこぞって急峻な岩稜の登攀ルート初登を競い合った。これらの事情が、前述したように遭難者の断トツに多い理由にあげられている。
30年ほど前、「谷川岳」(瓜生 卓造著、中公新書 絶版)を読んで以来、多くの野心家たちが熱いドラマを繰り広げ、若者たちの悲劇の舞台となった谷川岳は、私にとって長年、ぜひ登ってみたい山のひとつとなっていた。
日曜日の午後、一行6名は東京から車で登山口の上越線土合(どあい)へ移動し、駅舎の中で前泊した。土合は、いわば登山者専用の駅で、最盛期には多くの登山者で賑わっていたらしいが、現在は無人駅である。がらんとした待合室を独占し、今回の山行に地元から馳せ参じたS田さんを加え、宴を張った。S田さんは、関東甲信越の山々を縄張りとする伊勢崎ハイキングクラブの会長であり、我々にとって有力な助っ人である。宴会に先立ち、H井ドクターが、下り線の地下ホームの探検に出掛けた。ここ清水トンネルは、上り線と下り線が別々になっており、下り線のホームは地下82mの、486段の階段を昇り降りしなければならない。「地下ホームを見ずして、土合の駅を語るなかれ」とH井ドクターに挑発され、私も恐る恐る出掛けた。K枝さんとK西さんは頑として動かず、リーダーのHさんはちゃっかり自分のデジカメを私に託した。灯りは点いているものの、自分の足音が木霊する、薄暗いコンクリートのトンネルの中の階段をひとり歩くのは、かなり勇気が要る。この階段を昇って行ったクライマー達のうちの少なからぬ若人が、二度とこの階段を踏むことがなかったのだと思うと粛然たる気持になり、最後は去年鳳凰小屋の炉辺で聞いた谷川岳に纏わる怪談を思い出したりして、息を切らしながら殆ど駆け足で戻ったくらいだ。
月曜日、第1日の行程は、白毛門を経て笠が岳、朝日岳、清水峠までである。この稜線歩きは、西側に手前からマチガ沢、一ノ倉沢、幽ノ沢、芝倉沢の、谷川岳東面岩壁群を順次眺めることができる。稜線に出るまではかなりの急登であるが、ブナの新緑と石楠花の花が目を楽しませてくれる。台風4号の影響で午前中は、谷川岳の稜線にはガスが掛かっていたが、まるでナイフで切り込みを入れたような鋭いエッジが縦に刻まれているのが見える。ルンゼは残雪によって覆われている。それぞれの沢を画しているのは、稜線にせり上がっている痩せ尾根群であり、まるで各沢の岩壁は、それぞれ「うだつ」を上げて店舗を競っているようだ。実際、各沢には、登攀の観点からも、それぞれの持ち味があるらしい。
朝日岳に着いたころになると雲ひとつない快晴となり、四囲の名山が一望できる。S田さんの山座同定により、今まで名前だけしか知らなかった日光三山、武尊山、皇海山、至佛山、越後三山、平ヶ岳、巻機山、苗場山、赤城山、榛名山など上信越の山々の、雪を戴いた麗姿を遠望することができた。第1日の宿泊個所は、清水峠の「白崩避難小屋」である。この時期、入山者も少なく、避難小屋の利用は単独者と我々の2パーティだけだ。テントがワインやビールに化け(テントを車に残、その代わりアルコール類を担ぎ上げた)、豪勢な二日連続の大宴会。やまねに似た小さなねずみが梁の上から覗いていた。
第2日目の朝は無風快晴。谷川岳(オキノ耳、トマノ耳の双耳峰)へつながる縦走路が、七ツ小屋山、武能岳、茂倉岳、一ノ倉岳等のピークを配しながら、延々と続いているのが見える。かなりのアップダウンだ。この稜線では、シラネアオイ、カタクリ、ハクサンコザクラ等の花が咲いていた。茂倉岳の頂上付近で初めて登山者の姿を見たが、出会う前に姿が視界から消えた。芝倉沢をスキーで一気に滑り降りたらしい。
一ノ倉岳の頂上付近から、一ノ倉沢の急峻な岩壁やルンゼが真近に見られる。残雪の中に荒々しい岩塊が不気味に黒光りしている威圧的な形相に息を呑む。多くのクライマー達は、人間を寄せ付けようとしない絶悪な難所に死を恐れず挑み、ある者は初登の栄誉を勝ち取り、ある者は無残に敗退した。自然と冒険者達との壮絶な戦いが展開されてきた現場にたたずみ、私は声もなく、人間の“業”と死者達の“無念”に思いを馳せた。当日は、シーズンの端境期なのか岩に取り付いているクライマーの姿は見えなかった。
稜線を境に、新潟県側は石楠花や三つ葉つつじの花が点在する、たおやかなスロープである。群馬県側の峨々たる山容とは対蹠的だ。西に向かって、万太郎山、連峰最高峰の仙ノ倉山、平標山(たいらっぴょうやま)の主稜線が延びている。Hさんは、縦走第2弾として、このコースを一座(「平日やくざ組」)の演目に加えたいと言っていた。
下山は、マチガ沢を縁取る、日本三大急坂といわれる西黒尾根を下る。樹林帯に入るまでは、岩場の連続である。ようやく車道に下り立った時は、午後5時になっていた。2日間で20時間の歩行となり、我ながらよく頑張ったと思う。S田さんは、最後の締めくくりとして、我々を夕もやの帳のなか、「山の鎮」広場に案内してくれた。そこには、おびただしい数の遭難者の氏名が年次毎に刻み込まれた墓碑があり、改めて心を打たれる。最近、一ノ倉沢の岩峰で命を絶った労山連盟会長の吉尾 弘さんの名前もあった。墓碑をよく見ると、当初見込まれたスペースが足りなくなり、後で左右に増設したらしいことがわかる。思わず息を呑み、絶句…。
今回は、私にとっては全行程を通じ、死者への鎮魂の思いが、まるで通奏底音のように心を占め続けた山行だった。 (2003.6)
谷川岳山麓の「山の鎮」、800名を越す遭難者の墓碑に思わず絶句
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。