かれこれ20年前のことである。
秋分の日に、当時小学3年生だった娘を連れて、安曇川源流をさかのぼることを思い立った。京阪三条発(現在は出町柳発)の葛川梅ノ木行き京都バスは、すでに登山者でいっぱいだった。つり革に手の届かない娘を見て、私の前に腰掛けていた老人が「お嬢ちゃん、ここへお掛けやす」と言って、自分の足元に置いた荷物の上に娘を座らせてくれた。
老人は私に、どこに登るのかと聞いた。私は、平(だいら)からヒノコ、百井(ももい)を経て鞍馬へ出る予定だと答えた。すると老人は、お子たちと一緒に歩くのにいいコースだ、ただ、途中一ヶ所豪雨で橋が流出したままになっているので渡渉が必要であることを詳しくしゃべり出した。それから、自分も平で降りることを付け加えた。大きな声なので、このやりとりはバス中に聞こえる。皆が聞き耳を立てているようで、なんとなく気恥ずかしくなり、老人との会話が疎ましかった。いったい、この老人は何者だろう。小柄で、歳は六十後半。ゴム長靴を履いており、一見行商人風で登山者には見えない。無精髭で覆われた顔は柔和で、人はめっぽう良さそうだ。私は、悪いとは思いつつ、これ以上話しかけられないよう、ことさら無関心を装った。
バスは若狭街道を一時間余り北上した。つづら折の花折峠(当時は旧道)を越えると平の集落である。私たちはそこでバスを降りた。いつの間にか雨が降り出している。雨具を取り出している間、一緒にバスを降りた若いグループの一人が、早速老人に話しかけた。
「おっちゃんも山に登るんけ?」
「へぇ、ちょいと登りますねん」
「どこ?」
「皆子山ですねん」
やっぱり老人は山に登るんだなと思った。若者たちとの会話から、老人は皆子山に小屋を持っていることもわかった。「へぇー、ほな、わしもいっぺん泊めてもらお」。若者の頓狂な声と「気ィ付けてお行きやっしゃ」という老人の声を背中に聞きながら、私たち親子は安曇川源流(百井川)に沿った人気のない林道を歩き出した。周りの山々は雨に煙って姿を見せない。
いつの間にか、老人が追いついてきた。私たちは3人で歩くことになった。老人はしきりに子連れ登山を羨ましがった。そして、ぽつりぽつり身の上話を始めた。自分は京都に住んでいるが、10年前までは山には全く縁のない人間だった。10年前の元旦に、北アルプスで一人息子を失った。屏風岩を厳冬期登攀中に滑落死したのである。29歳だった。屏風岩の麓に墓を作ろうと思ったが国立公園のため認められず、生前、息子が歩き回っていた京都の北山に、それも京都府下で標高の一番高い皆子山を息子の安息の場所に選んだ。息子が死んでから自分もあちこち山を歩くようになった。お彼岸にはこうして息子の墓参りをするのだ。今夜は小屋に泊まる・・・。
私は、老人の話に強い衝撃を受けた。そうだったのか。私は返す言葉もなく、淡々と語る老人の話を呆然と聞くだけだった。かけがえのない一人息子を失った当初は、どんなにか悲嘆にくれたことだろう。しかし、「時」は老人の涙を昇華させ、いつしか心の中に息子を生き返らせたのだ。からかい半分で小屋のことを聞いていたさっきの若者の顔がふと心に浮かんだ。そして、車中で老人に抱いた自分の感情を思い出し、心の中で詫びた。
やがて私たちは、寺谷との出合いに着いた。道はここで二つに分かれる。老人は寺谷から皆子山の小屋に向かうのである。別れの挨拶を交わし、私たち親子はそこでしばらく立ち止まり、老人を見送った。老人は朽ちかけた丸太橋を渡って煙雨の中に静かに姿を消した。
雨はいつの間にかやんだ。私は、名状し難い気持ちで老人のことを考えながら歩いていた。突然、娘が「あのおじいちゃん、山が憎たらしないのやろうか」と呟いた。私は虚を衝かれ、返答に窮した。この子に、あの老人の胸中が理解できていたのだろうか。・・・老人は今夜、小屋で月明かりの下、息子と大いに語り合うことだろう。9月とはいえ、山中の夜寒は老いの身にこたえるはずだ。でも、愛しき者への骨肉の情愛は、そんなつらさを少しも感じさせないだろう。私はこんなことを考え続けていた。
いつしか雲間から薄日が漏れてきた。後ろを振り返ると、皆子山から下りてくる尾根の向こうに比良の蓬莱山が意外と近く、そのたおやかな山容を横たえている。やがて山道は百井川に突き当たり、そこで切れていた。ここが老人の言った渡渉の場所か。川幅は3メートルもない。私は靴を脱ぎ、ズボンの裾をめくり上げ、娘を背負った。水中に足を踏み入れると、身を切るように冷たい。わが子のぬくもりが背中に、手に伝わってくる。私は、そのぬくもりをじっくり味わい、親子の絆を確かめようとでもするかのように両手をしっかり握りしめた。
皆子谷を過ぎたところで道は再び上りになった。はるか左手下に百井川の渓流が柔らかい秋の陽を受けてキラキラと輝いている。杉木立から抜けると谷が開け、もうすぐヒノコらしい。山の裾野には、はやすすきの若穂が逆光の中で、吹きわたる秋風になびいていた。私たち親子は、黙々と歩いた。私は、老人のことを考え続けていた。そして、いずれの日か皆子山に登ろうと思った。いや、登らねばならぬと心に固く決めていた。
(1995.10)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。