例年11月1日から京都百万遍の知恩寺で開催される「秋の古本祭り」を、今年も覗いてみました。あるブースで、京都大学学士山岳会が編纂・刊行した「梅里雪山」というタイトルの分厚い函入りの本が、目にとまりました。この本は、1990年に京大学士山岳会が中国登山協会との共同事業として、中国雲南省の最高峰であり未踏峰の梅里雪山(6,740m)の登頂を目指して派遣した日中友好梅里雪山第2次学術登山隊が、1991年1月に第3キャンプで雪崩に遭い、日中17名の登攀隊員全員が遭難死した日本山岳遭難史上最大の悲劇となった事故の報告と犠牲者に対する追悼文を綴ったものです。
頁をパラパラとめくったところ、偶然に、私が所属する山の会の会友であるF本さんの名前が目に飛び込んできました。F本さんの、大阪府立高津高校の後輩で、遭難した隊員のひとりである船原尚武さん(当時30歳)への追悼文でした。高津高山岳部の出身者であればもしかしたらと思い頁を繰ると、案の定、F本さんの文章の次に山の会会員 Hさんの、高津高山岳部最後の部員だった後輩の死を悼む、愛惜の情切々たる文章が掲載されていました。
歴戦の山男たちは、その数々の輝かしい栄光の陰で、多くの山仲間とポーターたちを山で失っていることに思いを致し、粛然たる気持になりました。たまたま今年2月に、当時京大工学部の学生で梅里雪山遠征隊の後方支援要員だった小林尚紀氏の写真展「チベットの聖山 梅里雪山の世界」が京都の法然院で開かれたので、それを観て遭難事故の全容を知っていただけに、とくに胸に迫りました。
会員の坂田です。今日、京都東山鹿ケ谷山麓の法然院で開催中の写真展「チベットの聖山 梅里雪山の世界」を観てきました。小林尚紀氏(36歳)は、京都大学山岳会OBの写真家で、在学中の1991年1月、中国雲南省の最高峰で未踏の梅里雪山(6740m)で日中合同学術登山隊が雪崩れのために日中17名の遭難者を出したとき、救助・遺体捜索に携わったひとりです。遭難と遺体捜索の模様は、最近、山と渓谷社から出版された小林尚礼著「梅里雪山――十七人の友を探して」に詳しく述べられています。
展示されている写真は僅か40点ぐらいの小ぶりの写真展で、当初、なぜ場違いとも思える法然院の講堂の一室で開催されたのか訝ったのですが、観終わったとき、小林氏の、この場所こそという「思い」がメッセージとして十分伝わってきました。私が会場にいた短い時間内でも、息子を京大在学中に厳冬の槍ヶ岳で失ったという老人、「その節はたいへんお世話になりました」と言って板の間の床に端座して両手をついて鄭重に頭を下げた遺族の関係者と思われる老婦人、「あなたは貧乏学生だっただろうから、当時はこんなものは口にしたことはなかったでしょう」と言いながら生麩饅頭の包みを差し出す初老の婦人等々、訪ねてきた人たちと小林氏との心のふれあいがピンと張り詰めた空気を震わせ、訥々としたやり取りを背中に聞きながら写真を見つめるうちに私は、えもいえぬ粛然とした気持になりました。写真展のテーマは、必ずしも遺体捜索活動そのものではなく、小林氏が遺体捜索活動(まだひとりが見つかっていない!)に長年携わりながら「聖なる山」の真の姿 にたどり着くまでの”心の旅路”といったものです。(2006.2.22 山の会の「メールリスト」に流したメール)
この本を購入したのは、もちろんです。帰宅後、早速、頁を繰っていくと、故船原隊員の項に、故人を偲ぶ何枚かの写真のなかに、比良山の高津山荘(高津高山岳部OBたちが建てた山小屋)建設20周年記念登山のとき山荘をバックに撮られた関係者の集合写真がありました。今から20年前に撮られた写真です。よく見ると船原さんと一緒に、パンパンに膨れたお腹を突き出している、眼鏡をかけた「若者」の姿が写っていますが、それがなんとHさんの20年まえの姿らしいのです。思わず“時の移ろい”に感じ入りました。
その高津山荘も、老朽のため今年6月に解体撤去され、山男たちの思い出のいっぱい詰まった40年の歴史に幕を閉じました。11月に、高津高山岳部OBの皆さんと撤去された跡地を訪ねましたが、そこに山小屋があったことが信じられないくらい完全に自然に還っていました。そして、冬ざれの木立のなかの“跡地”は意外と狭い空間でした。生あるもの、形あるもの、縁あるものはすべて、いずれは朽ち果て、離別し、自然に還っていくもの。無常観がひときわ心に沁みるひとときでした。
梅里雪山、メイリーシュエシャン、いかなる勇士の挑戦をも拒み続けている絶峰とは裏腹に、なんという美しい響きの名前でしょう。
秀峰大地静相照 高潔精神在其間(大地あり 美しき峰ありて 気高き人がいて)
次向梅里雪山峰挑戦的勇士在此眠(梅里雪山峰の初登に挑んだ勇士ここに眠る)
これは、聖なる山、梅里雪山を西方遥かに望む山麓の飛来寺展望台に建立された慰霊碑に遭難者17名の氏名とともに刻まれている碑文です。
(2006.11)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。