奥駆道コースの難所の一つ、普賢岳山頂付近にて
画像手前が私
私が所属する山の会の「平日やくざ組」(「週末かたぎ組」との両生類も混じっている)は、平成16年1月28日から31日にかけて玉置山から前鬼まで縦走(順峯)した南奥駈道に次いで、昨年は2月5日から8日にかけ吉野から前鬼までの北奥駈道の縦走(逆峯)に挑戦しましたが、深い雪に阻まれ、山上ヶ岳を越えたところで敗退を余儀なくされてしまいました。そこで今年こそはと完全踏破を期し、3月3日から7日にかけ未踏破区間の縦走に挑みました。
メンバーは、会員のHさん(リーダー)、Y下さん(広島から参加)、K枝さん、K西さん、M岡さんと私の6名です。H、K枝、K西、坂田の4名は3回とも参加、Y下、M岡の2名は前回に次いでの参加です。Hさんは禁煙2週間目、「禁断症状」も佳境に入ってきたので子供騙しのシーガレットに模したチョコレートを常時口にくわえながら、Y下さんは下界で働かせている社員たちを叱咤する一方、細身の体躯で前回に次いで心強い強力(ごうりき)ぶりを発揮しながら、K枝さんは山岳連盟栄誉功労賞受賞(チョーオユー8200m登頂)の余勢を駆ってなんのこれしきと満を持しながら、K西さんは足の故障を抱えているのに自分が抜けたら芝居の幕があがらぬとの使命感に燃えながら、M岡さんは睡眠中と食事中以外はのべつなくおしゃべりを続けながら、坂田はいつ鳴るかわからぬロスタイム終了の笛におののきながら、それぞれ抱え込んだ問題や心境はさまざまではありますが、以下は、ただ一点でベクトルの合った奇妙な集団による冬季奥駈完全踏破への挑戦の一部始終であります。
近鉄大和八木駅前7:43発の湯盛温泉杉の湯行きバスに乗車、終点で待たせておいたタクシーに乗り継いで上谷(こうたに)へ。タクシーが1台しかなかったのでピストンで上谷に集合。上谷は国道169号線の上多古(こうたこ)から上多古川を遡ったところにある集落である。10戸ほどの民家があるが、人の気配は感じられない。昨年は、途中敗退の傷心を抱いてここに下山したのである。10:45に登山道にとりつく。いきなりの急坂だ。植林のなかのジグザグの登山道には雪は残っていない。息を切らしながら小1時間登ると上谷分岐に達する。一気に高度を稼いだ感じだ。ここからはなだらかな稜線の道となり、番号をふった丁石が現れる。山上ヶ岳への古い山道のひとつ、柏木道だ。12:00に天竺平に着く。昨年は、やっとここから携帯が通じたので、Hさんが、関係先に下山の報告と「入の波(しおのは)温泉・五色の湯」宿泊の手配を依頼したことを思い出す。このあたりから道はうっすらと雪を被ってくる。とにかく去年はこの道がやたらと長く感じられた。高度を上げるにしたがい雪は深くなるが、固まっているのでアイゼンがよく利き、何箇所かある急斜面のトラバース箇所もなんなく越えられる。このとき谷側の足を外側に向ける例のステップを、Hさんは荒川静香選手の得意技イナバウアのときの足のかまえに似ている(?)ことから「イナバウア」と名づけたが、優雅さには天と地の差がある。
14:30にブナの疎林の平らな雪原に着いた。歩いた距離と地形から判断すると、伯母谷覗のすぐ下部らしい。清冽な雪解け水の流れる谷川もある。少し早い気もするが今夜はここでテントを張ることになった。縦走の初日は稜線にたどり着くまでの急坂歩きと荷物が多いことで負荷が大きく、無理をしないことが肝心である。晩餐のメニューはキムチ鍋だ。食材は、今回の山行にそなえ2日も前からH宅に身を寄せていたY下さんと、鍋暦50年(?)と豪語するHさんの硬派シェフによって吟味調達されたものである。具の種類も下ごしらえも味付けにも、抜かりはなかった。
5時起床、朝食をとり、7:15出発。テントサイトまでは目印があったが、出発後すぐに目印が目につかなくなった。いずれにしても上部に登ればどこであれ阿弥陀が森への稜線に出るはずだからコースを気にせず雪面を登っていくと、頂上らしい平らな場所に着く。大きな杉の木の幹には赤いテープが付けてあった。そこを過ぎるとあとは南へはくだりとなる。とすれば、我々は、伯母谷覗を右に巻いてすでに阿弥陀が森の頂上にきてしまったことになる。8:15に女人結界門が現れた。脇宿跡である。もしかしたら、幕営箇所は伯母谷覗より西のかなり上部だったのかもしれない。いずれにしても、快調なペースに、一同に楽観ムードが漂う。9:15に小普賢岳を越え、9:40には大普賢岳(1779m)に着く。和佐又山からの合流点にはトレースはなかった。快晴無風で、頂上からの360度の展望がすばらしい。東に大台ヶ原、北西に去年難渋した山上ヶ岳、西に稲村ヶ岳と大日山、とくに南にはこれから登る彌山・八経ヶ岳が長い稜線を引いて輝いて見えた。四囲の大眺望を楽しんでいると、ひょっこり単独ハイカーが登ってきた。和佐又山から登ってきたという。一昨年からの冬季奥駈道縦走中、山中で出合ったはじめての登山者である。
10:00に出発。急坂を下る。弥勒岳、国見岳を越えたあたりから難所が現れ出す。ロープを使って雪の急斜面をおり、そこから鎖に縋って崖の中腹をトラバース気味にくだる。ここ稚児泊の手前の難所をクリアするのに小1時間を要した。七曜岳の前後の岩稜の通過にも難渋する。13:30に七曜岳を過ぎ、ふたつの大きなピークをのぼりおりして、ようやく15:00に行者還岳への鞍部に達した。行者還岳のピークを左に巻いておりると行者還小屋がある。しかし、そこまでの途中にもうひとつの難所、鎖場と梯子のくだりがひかえていた。15:30に小屋にたどり着いた。今回の行程では、明らかに今日の区間が核心部であろう。もうこれ以上先にすすむ気力は皆に残っていなかった。
行者還小屋は最近、大きな2階建てのロッグハウスに建て替えられたらしく、水道もトイレも付いた快適な避難小屋である。ただし、水道は凍結していた。小屋の後の高木の樹氷は荘厳なまでに見事だった。小屋は南西面に開けているので西日をうけ、遅くまで明るかった。広い床のうえにテントを2張り設営し、食事にかかる。今夜は、雉鍋である。私は疲労のため食欲を無くし、折角のご馳走にもかかわらず、鍋のスープだけで満足した。夜空は寒満天だった。
5時起床、7:20出発。アナーザ・ビューティフル・デイ!だ。今日の行程は、仏生ヶ岳の手前の楊子ヶ宿までの予定である。彌山・八経ヶ岳までの高度差約500mの登りと距離が長い点でハードワークには違いないが、昨日のような難所はないはずだから、クリアできないことはないだろう。
8:45に一の多和を通過する。トタン屋根の作業小屋のような小さな避難小屋が雪になかば埋もれていた。ここからコースは西に振る。なだらかな雪原を登り9:30に行者還トンネル西口からの登山道との合流点に着く。トンネル西口からはトレースがあった。昨日ぐらいに登ってきた人がいるのだろう。10:00に弁天の森を越えてからいよいよ彌山への長い、急斜面の直登となる。さすがに息が切れる。後に見える大普賢岳の鋭峰群を振り返りふりかえりしながら一歩ずつ足を引き上げ雪面を蹴りこむ。気温がかなりあがって、梢の先端の樹氷が解けはじめ、それが光線をキラキラ反射するさまはまるでダイヤモンドの輝きのようだ。梢に付いた「エビの尻尾」を取っては口に抛りこんで、喉の渇きを癒す。最後の力を振り絞るようにして、やっと彌山(1895m)の頂上に着いた。ときまさに12:00。彌山小屋の前で休憩する。時間からみて今日の幕宿予定地までいけるか微妙になってきた。八経ヶ岳までの区間はオオヤマレンゲの群生地である。鹿よけのネットは雪で倒れていた。13:10に八経ヶ岳(1914m)の頂上に着いた。今回の行程中の最高地点である。釈迦ヶ岳の尖った山容が望見される。八経ヶ岳から釈迦ヶ岳に連なる尾根が途中いくつかの峯を起伏させながら伸びており、一見、これまでの急登に比べると大したことはないように見えたが、実際はかなりの難路だった。トレールが雪に覆われているのでコースがわからず、何回も道に迷った。時間がどんどん過ぎてしまい、結局、舟のタワの手前と思しき雪原に幕宿することにする(15:40)。夕食のメニューは豚汁。明日は前線の通過で天気が崩れるとの予報が出ているので、早めに行動することにする。
強風で夜中に目が醒める。明け方には雨の音も混じってきた。4時起床、せめて午前中くらいはもって欲しいとの願いも空しく、氷雨混じりの強風のなかを6:10に出発。ガスで視界は30mぐらいしか利かない。1時間後に舟のタワに着く。さらになだらかな傾斜地を進む。地形からすると楊子の森(1833m)にかかっているらしいが、目印のテープが新旧入り乱れており、どれが奥駈道のものか判然としない。新しい目印を辿って進むうちに方角が違っていることに気がつく。引き返すこととし、小高いピークのところにくると道標がみつかり、我々がすすみかけた方角は七面山へのコースだった。楊子の森からくだり、ようやく正しいルートに戻ることができた。8:50に楊子ヶ宿の小屋を通過する。昨日はここまでかせぐ予定であったが、突っ込まずに手前で幕営したことは正しい判断だった。ちなみに、楊子ヶ宿の避難小屋は、やや小ぶりながらロッグハウスの立派な建物である。
佛生ヶ岳(1804m)への急な登りにかかる。その頂上付近で右側を巻く(9:50)が、トラバース道は歩幅ぐらいしかなく怖い。踏み外したら数十メートルは落ちてしまう。かと思うと、まるで薮こぎみたいになる。微妙にトレールをはずれているらしい。
10:30ごろになると一瞬ガスが晴れ、釈迦ヶ岳の北壁が意外と近くに見えた。鞍部に出ると目前に岩稜が現れるが、そこで目印がぱったりなくなった。どうやら右か左に巻いて通過するらしいが、いくら捜しても目印が見つからない。感じとしては右側らしいので、急斜面の少しくだってみる。しかし、岩峰を巻くことはできないことがわかった。そうなると巻き道は左しかないので、再度丹念に捜すと、雪に埋もれている目印の一部が見つかった。12:00に孔雀岳(1779m)の孔雀覗に着く。ここの切り立った東壁は前鬼から前鬼口へくだる車道から見える。再び氷雨が降りだす。見込みより2時間以上の遅れである。
12:50に両部分けに着く。狭い巨岩の割れ目を境にトラバースが稜線の右側から左側に変わる箇所だ。修験道ではここを境に北方の大峯山系を金剛界、南方の大峯山系を胎蔵界と呼んでいるらしい。一旦、稜線をくだり、椽の鼻の奇岩を大きく巻き(13:10)、再び稜線に這い登る。ここからいよいよ釈迦ヶ岳への岩稜の登りがはじまる。泣いても笑っても最後の登りであるとわが身を叱咤激励し、14:35にやっと釈迦ヶ岳(1799m)の頂上に立った。視界はほとんどない。頂上には高さ3.6メートルの大釈迦如来立像が西方を向いて立っている。「オニ雅」と呼ばれていた天川村の強力(ごうりき)が大正13年の夏にひとりで前鬼口から担ぎ上げたものである。台座だけでも134キロもあったという。このほかに近くの大日岳の頂上に等身大の大日如来坐像と椽の鼻の岩峰上に蔵王権現像をこの急峻な険路を担ぎ上げたというのだから、その体力・脚力は想像に絶する。「オニ雅」のそれにくらべれば、我々の労苦なんてものの数ではない。
今日中に前鬼までくだることができるか微妙になってきた。深山宿にある避難小屋に着いてから、最終判断をしようということになり、小笹に覆われた坂道を、まるで夢遊病者のようにヨタヨタとくだる。途中、アイゼンをはずすことができたので幾分歩きやすくなるが、皆の歩みはのろい。結局、深山宿に着いたのは15:45になっていた。もう今日中に前鬼までくだることは、時間的にも体力的にも、不可能である。
深山宿にはお堂と小屋がある。先に着いたHさんが、「首吊り遺体はなかったので安心しろ」と悪いジョークを飛ばすが、もう誰も反応できないくらい疲れていた。小屋は古く、土間の真ん中の囲炉裏のまわりに幅1mあまりの床があるだけだ。最初、囲炉裏で焚き火をして暖をとることを試みたが、残っていた焼けぼっくりは湿っており、必死の努力にもかかわらず火は起きなかった。窮すれば通ずるで、壁に立てかけてあった補修用のベニヤ板を床に継ぎ足してテント幅ぎりぎりの臨時の床をつくり、その上にテントを張って寒さを凌ぐことにした。夕食は予備用の乾燥食だから、これまでのものにくらべるとやや落ちるが、K枝シェフの工夫で、美味しく仕上がった。しかし、夜中に見た夢は食べ物のことばかりだった。
4時起床。空には星が瞬いている。しかも温かい。前線は通過してしまったらしい。朝食は、各自手持ちの行動食ですませる。5:40に小屋を出発。6:10に大日岳への分岐に、6:20には太古の辻に到着。「これより南奥駈道」大書された立て看板が懐かしい。一昨年、玉置山から歩いて到着したポイントであり、これで吉野から玉置山までの奥駈道が3年越しに完全に繋がったのである。おそらく70キロメートルはあろう。一同、しばし感慨にふけった。
前鬼までのくだりは、2年前には雪が深く、腰まで沈んでもがいたが、今回は雪が浅く、トレールもはっきりし、木道階段も雪から露出していた。太古の辻から2時間で前鬼の小中坊宿にくだることができた。気温があがり、春の日差しが燦燦と降り注ぐなかを、手配のタクシーとの出会い箇所とした車止めゲートのところまでゆっくり歩いた。途中、車道から昨日、氷雨のなかを辿った孔雀覗が雪を被った稜線とともに見えた。なんだか、遠い昔の出来事のように感じられた。
* * * * *
思えば、3年前の南奥駈縦走は、オジサン(山の会のメンバーで、2003年10月にヒマラヤで遭難死した故榊原義夫さん)への思いを胸に抱いての山行でした。Hさんはオジサンの形見の登山服を纏っていたぐらいです。まさに
雪深き八重の峰々辿りつつ 亡き影しのぶ奥駈の道
でした。去年は、雪との格闘の連続でした。それは
遥けくも越えつるものか裾の雪 まろび払ひつ奥駈の道
でした。そして、今年抱いた感懐は
たたなずく大峯の雪路踏み果てど 修験の道は遥かなりけり
です。私たちは、なるほど物理的には、大峯奥駈道の積雪期完全踏破を達成しましたが、内面では、今なお煩悩の坩堝のなかでのたうちまわり、解脱からほど遠い身の上に止まっているといわざるを得ません。そして、登山はまさに人生の凝縮そのものであるということをあらためて実感するのです。
(2006.4)
普賢岳から行者還岳までの区間には崖の中腹に設けられた危なつかしい桟道などがあり、無雪期でも怖いところ。それらが雪に埋まっていたり、氷結したりしており、緊張の連続で心身ともに消耗した。
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。