ロッククライミングを楽しむ
(三重県御在所藤内壁にて)
職場でいい上司に恵まれるかどうかは、幸せな人生を送るための主要な要素のひとつである。
私が勤務した会社の上司Nさんは、手持ちの人材をいかに活用するか、そのためにはその人の能力や持ち味を見つけ出し、それを最大限に引き出すことに心を砕いた人だった。Nさんは強烈な個性の持ち主ではあったが、まず率先垂範、部下に対しても、その独特なフィロソフィーと人柄で、ときには厳しく、ときには温かく、自分の考えを辛抱強く徹底させた。
私も、Nさんとのめぐり遭いはわが人生の幸運のひとつであったと思っている。
私が会社に入社した年に、技術援助契約に基づく米国の会社からの技術導入が始まった。この技術導入は、まだ小さかった会社にとって社運を賭けた一大プロジェクトであり、技術の総元締めの、当時常務であったNさんの直轄であった。そして入社したての、総務部所属の私が、本来の総務の仕事に加えて米社との窓口業務も担当することになったのである。
この分野の取り敢えずの私の仕事は、先方から送られてくる技術資料の分類整理等のほかに、コレスポンデンス(両社間の通信連絡)の下仕事があった。当社からの要請事項や先方から来たレターの返事などを英文にドラフトして、いちいちNさんにチェックしてもらうわけである。Nさんはあとで社長、会長を歴任し、いわば会社発展の礎を築き大企業の仲間入りをさせてくれた、立志伝中の経営者となったひとである。組織の上では直接の上司でもなく変則的な関係であったが、Nさんからは、傍にいるだけで強いボルテージを感じたものである。言葉には出さないがNさんには、大学出に、英語は苦手ですというような泣き言は一切言わせぬぞという姿勢がありありと感じられた。
当時はパソコンのような文明の利器はなく、原稿は全部鉛筆で手書きしたものである。恐る恐るドラフトを差し出すと、Nさんは何も言わずチビた消しゴムで私の書いた英文をいちいち消してはそのあとにあの独特の字体を書き入れていく。ついに、1頁の中に私の書いた単語が、それも冠詞や固有名詞などが五つ六つ残るだけの惨憺たる姿になるが、Nさんは決して、別の用紙に自ら模範文を書き示したりすることはもちろんのこと、「君、何とかならんのかね」というような言葉を吐いたり、顔色に出したりすることは一切なかった。私は、Nさんの不器用な手つきでごしごし消され、ふーふーゴム滓を吹き飛ばされていく自分の原稿を見つめながら、まるでわが身が削られていくような「痛み」にその都度ぴくぴくと身を縮め、実に情けない気持でNさんの机の端に立っていたものである。
これには、心底こたえた。私はそれから、寝ても醒めても英語に取り組んだ。まさに英語漬けといってもよかった。考えてみると、社運を賭けている会社も、新米の私も必死だったのだ。スマートな英語とは対極のものであったが、要するに意が正確に通じればよい。とにかく、究極のOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)であった。
努力の甲斐あって、1年後には原稿を直されることは殆どなくなった。そして最後には、Nさんが細部は殆ど見ていないことにも気がついた。しかし依然として、褒め言葉の類は一切なし。でも、差し出したドラフトにさっと目を通しながら「結構です」とただそれだけ言ってNさんが返してくれるドラフトを受け取る瞬間の嬉しさを、今でも鮮明に覚えている。
ちなみにこの技術導入は、その後の会社の大躍進のきっかけとなった。
あるとき、真面目いっぽうで、少し気も弱い大学出の若い技術者が仕事に行き詰まりを感じ、思いつめて会社を辞めたいと漏らした。それを聞きつけたNさんはその若い技術者X君を自室に呼んだ。X君は恐る恐るNさんの部屋に入り、勧められるままに会議用テーブルの端の椅子に浅く腰掛けた。Nさんの方は、隅の自分の机の椅子に腰掛け、両足を伸ばし両手を後頭部で組んで、X君に背を向けたままである。そのまま、何分間か過ぎた。X君は息が詰まり、いたたまれなくなりかけたそのとき、Nさんは、ふーっと大きなため息をつき、大きな肩を落としながら呟いた。「できることならね、僕だって辞めたいくらいだよ・・・」と。 X君は、どうやってNさんの部屋から飛び出してきたか、思い出せなかった。
若い技術者Y君は、血気さかんな若者である。世の中を少し甘く見ているフシもあった。あるとき、職場でのちょっとした不満が嵩じて、こんなつまらん仕事をいつまでもやっておれるか、会社を辞めて大学院で勉強し直す、と言い出した。そのことを聞きつけたNさんは、東工大の後輩でもあるY君を自室に呼びつけた。Nさんは、Y君が部屋にはいってくるなり、机の上の書類を片付けながら顔も向けずにいきなり、「君、大学院に行くならね、絶対MIT(マサチューセッツ工科大学)だよ。僕は東大も、東工大も勧めないね」と言い放った。
X君もY君も、Nさんの当意の一言にそれぞれ奮起し、その後、一心不乱に仕事に励んだ。そして、ともに会社の経営陣の一翼を背負う人材に育った。子は両親の、後輩や部下は先輩や上司の、背中を見ながら育つといわれるが、教育の原点はまさに率先垂範と信頼にあると思う。
(2008.10)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。