第四回(1)
西郷の胸中には、一体なにがあったのだろうか
それにしても、西郷の存在そのものがすべてであるという「気分」だけで、戦略思考というものを全く欠いた桐野利秋、篠原国幹ら(ともに元近衛陸軍少将)にわが身をあずけ、彼らの言うがままになった西郷の心事はいかにもわかりにくい。もともと言葉数のすくない西郷は、このことについて一文はおろか片言隻句すら残していないのだ。さらに、幕末に革命の主導的役割を果たした、あの西郷の豪胆果断のイメージと下野後の大度淡泊な進退との落差にはまさに別人の観があることが、いっそう西郷像をわかりにくくしている。
この点について、明治維新は革命であったことには違いなく西南戦争はそれに対する封建士族の反動的反乱(反革命)に過ぎなかった、西郷はその首魁であったと一刀両断する唯物史観の立場にたつ学説から、明治維新を民主主義革命(封建的身分制度の打破と国民的統一)と捉えたがそれは「裏切られた革命」におわり、必然的に「第二革命」によってその本質を完成すべき宿命にあった、その「第二革命」こそ西南戦争であったとする右翼思想家の北一輝の主張まで、さまざまな解釈がなされてきた。
たとえば司馬遼太郎は、「政治家や革命家が一時代を代表しすぎてしまった場合、次の時代にもなお役に立つということはまれであるといってよい。西郷は倒幕において時代を代表しすぎ、維新の成立によって局面がかわると後退せざるをえなくなったという当然の現象が、一世を蓋っている西郷の盛名と同時代に存在しているひとびとには、容易にはわからなかった」と総括している。井上 清も、西郷は維新成立後も地方的・藩士的思想と発想を超克できず国民国家官僚に転進できなかった、この点が大久保との違いである、と分析している。
いっぽう福沢諭吉は「丁丑公論」で、新政権の専制頑冥を激しく指弾し、西郷の決起は人民抵抗の精神のあらわれであり、正と反の争いはやがて自治の権利を発明するに到る、と評価している。渡辺京二は、「西郷・勝、さらにつけ加えるなら横井小楠の間には共通の思考が在る。道義的世界というのがその思考であって、彼らにとって近代とはまさに道義的公正が人類史上はじめてその全姿を現す地平にほかならなかった。・・・西郷らは、近代国民国家の断乎たる信奉者だった。彼らにとって近代国民国家とは、現実にそうであるような近代世界システム内の利己的なプレイヤーなどではなく、道義的地球世界を実現する一個の道具だったからである。私は彼らの思想に過大な意味を読みこむものではないが、彼らが国家というものに道義の実現を託したナイーヴな姿勢には心うたれずにはおれない」といっている。桶谷秀昭は、西郷の心事を次のように推測している。西郷の正義と維新革命の精神の具現である国家理想は、大久保の国家経営の時務論からすれば根拠なき幻影にすぎなかったであろうが、西郷にいわせれば、大久保が保守しようとする国家は商事会社とかわらぬ、存在理由のないものであり、そういう国家は亡んだとしても彼の理想に何の痛痒もなく、むしろ亡ぶべきであった。亡ぶことによって焦土の中から不死鳥のように飛翔する精神的な新日本が再生しなければならなかった、と。さらに江藤 淳は、「日本をやみくもに西洋に変えようとする新政府の『姦謀』は許せないとする西郷の心情は、陽明学でもない、「敬天愛人」ですらない、国粋主義でもない、排外思想でもない、それらをすべて超えながら、日本人の心情を深く揺り動かして止まない、強烈な思想である。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて『西郷南洲』以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった」と、高揚した気分で言い切っている。
佐藤誠三郎は、さらに巨視的な歴史の大きな流れから見て次のような見解を示している。いわば自然史的な過程として近代化を進行させた先進国の場合と異なり、当時のわが国は伝統的体制(中央政権としての徳川幕府と地方政権としての藩の二重構造という大きな矛盾を抱えていた)を根底から揺り動かさずにおかない衝撃に的確に対応する政治指導が求められたのである。当時のわが国がこの「国難」を乗り切るには、@開国要求の積極的受容による国際社会への参加、A先進国の成果の摂取による「富国強兵」の実現、Bこれらを能率的に達成する前提としての強力な中央集権権力の樹立、が不可欠の前提であった。そして大久保こそ、この「時代の要請」を不退転の決意で受け止め、国家形成の基礎を構築するという困難な作業においてもっとも重要な役割を果たした政治家であった。大久保等が進めた国づくりの方向自体は、当時のわが国が置かれた内外の状況から見た場合、ほかに選択の余地はなかったと言わざるを得ないだろう。しかし、文明開化イーコル西洋文明、近代国家イーコル現実の欧米列強という認識であった大久保の立場からすれば、日本の伝統的体制は陋習の体系に過ぎなくなり、近代化とは伝統を否定して「西洋化」することにほかならなくなるのは、必然の流れであった(脱亜入欧)。これこそ、日本の封建制の要である徳川幕府を倒し、さらに廃藩置県という大名制度の破壊に積極的に力を尽くした最大の革命家であったものの、自他の中にある封建思想そのものまでを敵としてこれを攘うほどの苛烈な革命思想をもつに至らなかった西郷(藩主島津斉彬への敬慕の念は終生変わらなかったという)との違いの本質ではなかったか。西郷を象徴とする雄藩士族の心情との対立は避けられないものとなり、西南戦争という形で結末を迎えたのである、と。
評者の視点、光のあて方によって浮かびあがる西郷像はさまざまである。私が目を通した文献はきわめて限られた範囲にすぎないが、いずれも西郷という巨像の一面を照らし出しているのはまちがいないだろう。いずれの解釈が西郷の全体像にもっとも近いのか、正直いって私には判断がつかない。ただ、当初の討薩の志を改め薩軍に参加した中津隊の増田宗太郎が城山での最後を前に吐露したという「余、城山に入り初めて西郷先生に接し、景慕の情禁ずべからざるものあり。一日先生に接すれば一日の愛あり、十日接すれば十日の愛あり。故に先生の側を去るに忍びず、先生と共にその生死を同うせんことを誓へり」という言葉が、静かに、深く、わが心底に残響しているのは確かだ。
大久保も西南戦争の翌年に暗殺されてしまう。薩摩藩の同じ下級士族として青少年時代から形影相伴うようにして国事に尽瘁してきながら最後に袂を分かつことになってしまった西郷と大久保は泉下で再会したとき、どんな会話を交わしたのだろうか。いずれにしても、このとき選択された国民国家形成の基礎は、良かれ悪しかれ、その後の日本の国家運営の仕組みと日本人の精神・背骨・運命を決定した。
130余年を経た今日の日本。経済のグローバリゼーション、米ソ対立構造の崩壊と多極化、地球環境の危機など現下の世界的課題の加えて、特に日本に顕著に表出している少子高齢化現象などは、これまでの延長線上の発想、パラダイム、体制では対応できない状況であるという意味では、幕末の日本が直面したものに匹敵する「衝撃」、「国難」とそっくりではないかというひともいる。ただ大きく異なる点が少なくともひとつある。当時は、下層武士を中心にした青年の憂国の情念が革命的回天のエネルギー源となったが、現在においてはその若者の変革への鬱勃たる情念が一向に見えないことだ。
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●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。