「梅雨の晴れ間」との前夜の天気予報を見て、急遽、雲取山に登りました。晴天を期待したのですが、山中は終日うす曇りでした。平日ながら出町柳発の京都バスは満員でしたが、花背の雲取山へ向かう登山者は、私を含めわずか4名でした。雲取山は、ハイカーにとってやはりマイナーな山なんでしょうね。
7〜8年ぶりの雲取山、コースはほとんど記憶に残っていませんでした。途中、大学山岳部の山小屋が2つもあり、この山域は登山の手近な訓練場所になっているのでしょう。バスを降りてから寺山峠と雲取峠のふたつの峠を越え、1時間30分で頂上に着きました。911mの標高がありますが、リョウブや馬酔木の潅木に覆われ、展望はまったくなし。のぼりに比べ、むしろ頂上からの三の谷のくだりが急坂でちょっと難儀しました。
灰屋川の上流の谷にくだり、芹生(せりょう)を経て、さらに芹生峠(灰屋川と貴船川の分水嶺)を越え貴船への長い林道や旧街道を歩きます。途中、出会うひともない静寂の世界です。灰屋川の川岸には、クリン草の花が点々と、かつ、ひっそりと咲いて渓流のせせらぎに彩りを添えていました。
芹生は、今は2〜3軒の民家があるだけの山あいのさびしい集落ですが、ご存知、ここは浄瑠璃や歌舞伎の演目のひとつ「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」の「寺子屋の段」の舞台となった場所として有名なところです(寺子屋が生まれたのは江戸時代ですから史実ではありませんよね)。
・・・ライバルの藤原時平の讒言により九州の大宰府へ左遷させられた菅原道真は都に残していく幼いわが子に危害が及ぶことを懸念し、山奥の芹生の里に身を退いて寺子屋を営んでいる弟子の武部源蔵に密かにわが子を預けました。しかし、そのことが時平側に察知され、その子を殺し首を差し出せとの達しが松王丸を通じて届きます。身代わりにすべき実子のない源蔵は進退窮まり、預かっている寺子のなかから身代わりになりそうな子を物色するのですが、いずれも洟垂れ小僧で、見破られるのは必定。そのなかで、前日新入りしたばかりの寺子が気品もあり年恰好もぴったりだったので、源蔵は涙ながらにその子をあやめ、その首を入れたつづらを、首実験に来た松王丸の前に差し出します。松王丸は嘗て道真に引き立てられた部下のひとりだったのですが、今は巡り会わせで時平側に仕えている人物。したがって源蔵は、窮余の一策が松王丸に見破られたらその場で松王丸と刺し違えて死ぬ覚悟で、はらはらしながら見守っています。つづらの蓋を開け首実験をした松王丸は鬼面の形相となり、「これは道真の子に違いなし、源蔵でかしたぞ」と、腹の底から搾り出すように言い放ちます。なんと、前日、新入りさせられた寺子こそ実は松王丸が身代わりにしてもらうべく差し出したわが子だったのです。前日、寺子を預けにきた妻女は、「お役に立ててくださったか、若君ーい」と、首のないわが子の亡骸をしかと、しかと胸に抱きしめ、蹌踉と木戸口から立ち去ります。すべてのことを悟った源蔵は、「げに、せまぜきものは宮仕へー」と絶叫・・・。
芹生の「寺子屋橋」の近くに「寺子屋跡」とされる小空地があり、小さな祠が祀ってありました。そこには、「菅原のすりおく墨のいつまでも 硯の水のつきぬかぎりは」という武部源蔵の短歌を刻記した石碑もありました。私はここでしばし佇み、谷川を吹きわたる爽やかな風に身を委ねながら、いにしえびとの生きざまに思いを馳せました。そして、以前この歌舞伎を京都南座で観たとき、同じ宮仕えのわが身を松王丸や源蔵の身上に重ね、思わず涙を流したことを思い出しました。
京都周辺にはこれといった高い山はありませんが、名もない路傍の一木一石にも歴史の「しずく」が染み込んでおり、それらを身近に感じながら歩くと案外味わい深い散策が楽しめます。
明日からまた雨のようですね。
(2008.6)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。