ハンテングリ峰(奥の尖峰)
2010年4月、中央アジアのキリギスの首都ビシュケクで反政府デモ隊と治安部隊とが衝突し、多数の死傷者が出たとの報道が飛び込んできました。テレビの画面には首都中心部の建物が炎上している様子が生々しく映し出されていたことから察すると、動乱は相当大規模のようです。報道の解説によると、反政府運動のエネルギーは、バギエフ政権の腐敗と圧制であると伝えています。
キリギスの首都ビシュケクには思い出があります。老生は6年前、「山の会 カランクルン」の山仲間であるHさんとKさんと中央アジア天山山脈の秀峰ハンテングリ峰(7010m)に挑戦しました。ちなみに、天山山脈の最高峰は7400mのポメーダ峰ですが、山容はハンテングリ峰がはるかに秀麗です。この遠征の前半で登頂したロシアのカフカス山脈の主峰エルブルース峰(5642m)アタックのとき発症した高度障害(一過性の視力減衰)の影響が残っていたため、ハンテングリでは老生は4000mのベースキャンプ段階で早々と敗退。身の程知らずの「暴挙」を悔いつつひとり戦線離脱して、「強制送還」された先がビシュケクだったのです。
ベースキャンプから他の外国人下山者たちと一緒に大型ヘリで登山基地へ降りたのですが、言葉(英語)が全く通ぜず途方に暮れていると、みんなが老生も一緒にワゴン車に乗れとしきりに身振りしています。どこへ連れていかれるのか皆目判らないので、迂闊に応じるわけにはいきません。自分はエージェントのひとが面倒を見てくれるはずだと喚きながら必死に抵抗したのですが、運転手と同行の下山者(7〜8人)たちに有無を言わさずワゴン車の最奥に荷物と一緒に押し込められてしまいました。度を越した悪ふざけか、もしかしたらこれ、「拉致」ではないかと不安に戦きました。車窓から随所に、大型プロジェクトらしいものが工事の途中で放置されている荒廃した風景を見るにつけ、余計に不安が募りました。どこへ「連行」されるのか、何時間車に乗せられるのか・・・。しかし、陽気な同乗のキリギス人とロシア人(?)たちは、哀れな老人の落魄をよそに何かと世話を焼いてくれます。
途中、車は前庭に黄色の杏の実がたわわに生っている田舎の小さなレストランに寄り、昼食をご馳走になりました。とても美味しい食事でした。自分より決して豊かそうには見えない若者たちに負担させるのも癪なので、自分の分の代金を払おうと思って、手持ちの現地通貨をテーブルの上に並べたのですが、老生の分は受け取ってくれません。ふたたび大きな湖沿いの道路を西へ走り続けていると、車は道からはずれ、湖岸の砂浜に出ました。何ごとが始まるのかなと思っていると、みんなはいきなり素っ裸になって、つぎつぎに湖水のなかに飛び込んでいきました。登山中の汗と垢を流そうというわけでしょう。老生にも脱げとしきりに勧められましたが、生憎、体調を崩していたので辛うじて辞退。
車はさらに西へ走り続けました。そのうちに町筋で、ひとりが車から飛び降り、露店から塩ニシンの焼いたのを一抱え買ってきました。これを頭から丸齧りして、車中、ウォッカのビンを回しながらのラッパ飲みが始まったのです。老生もニシンの塩っぱさに耐えかねてつい一口がぶ飲みしましたが、喉が焼きつくような強烈な刺激に思わず飛び上がりました。当地流の付き合い方というのでしょうか、もはや言葉は不要。老生もこうなったらなるようになるさと肚をくくり、彼らとすっかりうち溶けあいながら、10時間余の車中の長旅に身をゆだねたのでした。おそらくキリギスの東端から西端まで横断したのではないかと思います。
ビシュケク(そこがビシュケクだったことはあとで知りました)に着いたのは夜遅くになってからです。同乗者は市内各所で次々に降りていき、最後まで車中に残された老生は再び不安の淵に沈みかけましたが、やがて小さなホテルへ連れて行かれ、エージェントのおばさんに引き渡されました。そこではじめて自分がちゃんとケアされていたことを知り、心底ホッとしたしたのです。最初から知っていたなら、愉快な連中とのキリギス横断の長旅も存分に楽しめただろうにと余裕をもって思えてきのは、ずーっとあとになってからです。
翌朝、事務所へ出向き、早速、帰路便フライトの手続きをしてもらいましたが、日本へのフライト(タシケント乗り継ぎ)は毎日飛んでいるわけではありません。ここにもう1泊する必要があるが、観光を希望するなら日本語のできる人と運転手をつけてやるとの願ってもない親切な申し出。通訳は、当地で日本語を勉強したという若い女性でした。容貌はモンゴロイド系であり、一方の運転手はコーカソイド系でした。ちなみに、中央アジアの国々では、この二つの人種系の人びとが一見何の違和感もなく入り混じって生活しており、シルクロード時代からの東西世界の長い交流の歴史を感じさせます。
まず彼女に、歴史民族博物館への案内を乞いました。その国の国柄を手っ取り早く知るのには、これが最も簡便な方法だからです。遊牧民族としてのこの国の生い立ちがよくわかりました。ところが展示は、ソヴィエット連邦革命の成果を華々しく歌い上げている段階で終わっており、ソ連邦体制の崩壊とその体制からの離脱のあと、この国はどの方向に新しい国づくりを進めようとしているのかについては、わからず終いでした。そのあと大統領府をはじめ、政府の建物群が集まっている一角を案内してもらいました。共産圏国の首都でよく見られる威風堂々とした構えです。ただ、通りすがりの一旅行者に、その国の実情が把握できるはずもありません。観光客が三々五々、見物しているのどかな風景でした。
昼時になったのでふたりを食事に招待したいのでいいレストランへ連れていってほしいと申し出ました。ふたりとも、まったく観光客ずれをしておりません。ふたりは相談していましたが、涼しげで、いかにも中央アジアの風情に満ちたレストランに案内してくれました。当地の伝統料理がとても美味しかったことを覚えています。運転手も一緒でしたからあまり突っ込んだ話はできませんでしたが、今から思えば彼女の言葉の端々には、強大国の狭間で歴史の荒波に翻弄されてきたこの国と国民の直面している困難がにじみ出ていたように思います。つつましやかな挙措のうちにも、かなりの知性の持ち主であることを感じさせました。一度ぜひ日本に行きたいとも言っていました。老生は別れ際に、土産ものを買ったあと手元に残っていた現地通貨を、ドルや円に戻せないからと事情を説明し、お世話になったことに対する感謝の気持として彼女と運転手に受け取ってもらいました。
テレビに映し出された動乱の映像を見ながら、今、彼女たちはどうしているのだろうかと安否に思いを馳せました。民主化運動が成功するかどうかも今のところわかりませんが、一日もはやく彼地の国情が安定し、国民に豊かで平穏な生活がもたらされることを祈らずにおられません。老生を一蹴した白銀の鋭鋒ハンテングリも、そのことを願っているはずです。
(2010.4)
ビシュケクを案内してくれた通訳の女性と運転手
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
2010年10月掲載 キリギスの民主化動乱
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。