屋久島は鹿児島県の大隈諸島の一つ、九州本島最南端佐多岬の南方60kmの黒潮洋上に浮かぶ日本で6番目に大きな島で、周囲132km、面積503平方km、東西28km、南北24kmとおよそ円に近い島をなしている。東の平坦で細長い種子島とは対象的に、海岸からいきなり急峻にそそり立つ。島の中央には九州の最高峰「宮之浦岳」(1936m)を盟主とし、「永田岳」、「栗生岳」が隣接する。なお、屋久島は、「霧島屋久国立公園」として国立公園に編入されている。また、白神山地と並び、日本で第1号のユネスコ「世界自然遺産」に登録されている。(昭文社「山と高原地図―屋久島」より)
山の会の有志山行(H隊長)に参加し、2008年10月8日から11日まで、屋久島を訪ねた。私にとっては、屋久島は初めてである。参加者は、Hさんのほか、I田さん(軽井沢)、K田さん(岡山・赤磐市)、N井さん(箕面)、M上さん(池田)、K島さん(豊中)、I東さん(枚方)に老生(京都)の8名である。今回初顔のK田さんは、I田さんのお姉さんで、いわばI田さんは、K田さんの「付け人」役というわけである。大阪から鹿児島乗り継ぎのフライトで、8日の夕方、屋久島に着いた。レンタカーで尾之間の民宿「四季の宿 尾之間」へ。
宮之浦岳登山
9日4:30起床、5:00に民宿を出発する。日本の西端だけあって日の出が遅く、まだ真っ暗。途中、弁当屋で朝食、昼食の弁当2個ずつを受け取って、「安房」から登山口の「荒川口」へ向かう。5:50に標高700mの「荒川口」に着くが、すでに道の両側には車がいっぱい。登山者も溢れている。以前宮之浦岳に登ったことのあるI田さんから、ほとんどが縄文杉までの日帰りハイカーであると聞き、安心する。車の脇で、朝食用の弁当を開く。6:25に出発。三々五々、ハイカーの群れが続く。多くは、地元のガイドが同道しており、要所要所で説明を加えている。「荒川口」から「大株歩道入口」までの8kmは旧森林トロッコの軌道上を歩くわけで、水平道に近い。歩き出して間もなく、小雨が降り出す。小杉谷集落跡には廃校跡もあった。おそらく分校だったのだろうが、林業最盛期にはこの集落にかなりの人々が住んでいたのだろう。8時ごろ「楠川分れ」を通過し、9:20に「大株歩道入口」に着く。トロッコ軌道敷の終点である。樹叢が鬱蒼としており、薄暗い。ここからは本格的な登山道になる。道はよく整備されており、かなりの部分は、階段部分を含め、木道となっている。木道でない部分は、樹根が縦横に走っており、うっかり樹根に乗ると滑るから危ない。30分足らずで、「ウイルソン株」に着く。地上数メートルのところから切り倒された屋久杉の巨木で株のなかは広い空洞になっており、十数人は優にはいれる。なかには清水が流れており、小さな祠もある。「ウイルソン株」の脇で弁当を開く。ここから「大王杉」、「夫婦杉」といった固有名についた屋久杉の巨木が次々と現れる。12時すぎにお目当ての「縄文杉」に着く。大勢のハイカーたちが、ほおーっと感嘆の声をあげていた。樹齢には諸説があるらしいが、説明板には推定7200年とあった。本土ではせいぜい樹齢数百年の古杉しか見たことがないが、屋久島は杉にとってかなりいい生育環境なのだろう。数千年もの間風雪に耐えてきた「縄文杉」を目の当たりにし、畏敬の念すら覚える。いったい杉の寿命は何年ぐらいあるのだろうかとあらためて思った。
聞いていたように、ほとんどのハイカーたちはここから引き返す。「高塚小屋」へ向け歩を進めたのは結局私たちだけだった。周りの樹相が変わってきた。橙色の木肌のヒメシャラの巨木が目立ち、杉のほかにツガやトウヒなどの木が見られるようになる。それらが煙雨のなかで煙っているさまは幻想的である。「高塚小屋」の前で小休止したあとさらに登り、2時過ぎに標高1500mの山中にある「新高塚小屋」に着く。ここが今夜の宿舎である。小屋が満員の場合に備えてテントを持参していたが、小屋には誰もいなかった。夕方にかけ、淀川登山口から宮之浦岳を越えてきた登山者が何組か到着し、結局、小屋はほぼ満員となった。
「高塚小屋」もこの「新高塚小屋」も、翌日通過した「淀川小屋」も、日当たりのない湿潤な環境下にあるせいか外観は本来の経年変化以上に痛んでいるように見受けられた。「新高塚小屋」の周りの片側は丸太を敷き詰めた広い廊下となっており、ちょっと離れたトイレや水場への行き来にはぬかるみを通らずにすむようになっている。小屋のヴェランダでお茶を沸かして一服していると鹿が現れ、私たちの挙措を円らな瞳でじーっと観察していた。屋久鹿で、本土の鹿よりひとまわり小さい。夕食は、うなぎ丼にマツタケ味のすまし汁だ。いい香りを撒き散らしたので、同宿者たちに羨ましがられた。
夜中にI東さんとHさんの話し声がしていたが、ヴェランダの柱に吊るしておいた朝食用の食材を入れていた袋と隅に置いていたゴミ袋が鹿に荒らされていることを朝になって知った。ヴェランダ一面ゴミだらけにされたが、幸い実害はなかった。昨日現れた鹿の犯行に違いない。屋久島観光協会から表敬訪問に派遣されたのかと冗談を言っていたが、飛んでもない奴らだった。I田さんは、車を下山口の「淀川入口」へ回送するため宮之浦岳に登らず、ここから「荒川口」へ下山することになった。序にテント等の不要物もボッカしてもらえるという実にありがたい話だ。
ラーメンの朝食をすませ、I田さんと別れ、6時すぎに出発。ガスっている。樹相はシャクナゲやアセビなどの潅木帯となる。下生えはない。第1展望台では、ガスで視界はほとんどゼロ。7:30に第2展望台に着く。空は明るくなったが、依然ガスがかかっている。先を急ごうとする私たちを、Hさんがまあまあと言って引き留める。すると見る見る間にガスが晴れ、「宮之浦岳」の頂上が行く手に姿を現した! まさに「慌てる乞食は貰いが少ない」だ。すぐ先から樹林帯が終わり、緑のじゅうたんを敷いたような山肌が、白い花崗岩の巨岩を点在させながら頂上へ伸びているではないか。8:30に「平石」の巨岩の間を抜け、8:55に「焼野三叉路」を通過する。右手には手前に「坊主岩」が、三叉路から分岐した尾根道の先には「永田岳」(1886m)が巨岩を頂上に戴いて西へ連なっている。ちなみに屋久島は花崗岩からなる島であり、露頭している岩は白っぽく、全部丸みを帯びている。シャクナゲと屋久笹の緑色と花崗岩の白色のコントラストが柔らかい景観を演出してくれる。
9:25に頂上に着く。南側と西側はガスがなく、海が見える。頂上からは山塊が四囲にたたなずいており、それらが最後海に切り落ちているのが判る。特に「永田岳」と、これから私たちが歩く「栗生岳」(1867m)、「黒味岳」(1831m)へ連なる尾根が見事である。屋久島の山には、そこから流れ出る川の河口にある集落の名前が付けられている。
9:45に頂上から下山にかかる。登りのコースとは景観も樹相もまったく異なる。今朝、「淀川入口」から登ってきた登山者と出会うようになる。早朝出発であれば、こちらからだと日帰りで宮之浦岳往復も可能であろう。11:30に「投石平」着。ここから低い尾根をひとつ越え、12:30に「花之江河」に着く。ここは、泥炭湿原であり、5つの登山ルートの合流点でもある。休憩するにはもってこいの場所だ。木道の上で思い思いに寛ぐ。湿原の真ん中に伸びた木道の脇の浮塘には苔むした小さな石祠があった。大自然といにしえ人たちの営みとの接点を象徴しているかのようだった。たゆたう時空に身も心も委ねているうちにN井さんは木道から彷徨い出て、湿原のなかに突き進んでしまった。泥だらけになり我にかえった彼女はしきりに言い訳をしていたが、石祠の前に置いてあった賽銭の一円玉2〜3個につい目がくらんだのではないかという醒めた見方もあった・・・。
清水がちょろちょろと流れている花崗岩の砂礫の道をくだる。あたりはシャクナゲの潅木で覆われている。花季には全山、花の衣を装うことだろう。I田さんとは「淀川入口」で2時に落ち合うことになっていたが、私たちは周りの景観に見とれ、ゆっくり歩いていたので、少し遅れる見込みだ。「淀川小屋」まであと30分ぐらいのところで、「淀川入口」から待ちきれずに登ってきたI田さんとぱったり出会い、みんな歓声をあげる。淀川にかかる吊り橋を渡ると「淀川小屋」があった。周りは再び、熱帯雨林のようなうっそうと木立の茂る樹相となった。杉の大木の枝には風苔が寄生し風になびいており、いかに湿度が高いかを物語っている。西大台ヶ原の雰囲気に似ている。途中、何本かの巨大杉の脇を通って3時過ぎに「淀川入口」に着いた。
昨日の登り行程も9時間、今日のくだり行程も9時間の長丁場。途中景観を楽しみながらゆっくりと歩いたこともあるが、登山道の斜度が緩やかであるから時間の割には疲れは感じなかった。宿舎に帰ってからすぐ、近くの鄙びた「尾之間温泉」に浸かり、汗を流した。湯からあがると、外はスコールだった。
屋久島一周
熟睡の一夜から目覚めると、昨日までとは一転、快晴である。眼前にそそり立つ「本富岳」(もっちょむたけ)の岩壁が朝日に輝いている。9時に宿を出発。まず、近くの「千尋滝」を訪ねる。巨大な花崗岩のスラブがV字型に両側から収斂した接線が川となり、それが3段の滝となって下流に流れ落ちている。両側の巨大な斜面は保水力ゼロであるから、流域に降った雨は漏斗で集められるように全部滝の水となるわけだ。両側のスラブは一枚岩のように見えた。
次に、「尾之間」の隣の集落である「湯泊」にある「平内海中温泉」を訪ねる。ちなみに、「尾之間」と「湯泊」が屋久島の南海岸にある集落である。駐車場から海岸にくだる公園のなかは、南洋そのものである。海中温泉とは、干潮の前後各2時間だけ入浴できる潮溜まりの温泉である。岩礁のなかにあるから、潮位が上がると潮溜まりは海中に没する。今日の干潮は午前10時であるから、8時ごろから正午ぐらいまで入浴可能というわけ。温泉の湧出する潮溜まりは数箇所あるが、人の手はほとんど加えられておらず、靴脱ぎ場も脱衣所も仕切りもなし。要するに視界を遮るもの一切なく、そのまま太平洋につながっている。しかも注意書きには、足湯も駄目、水着着用も駄目とある?! 然り、完全平等の原始的混浴というわけだ。衆人環視のなかでの脱衣は非日常的行為であり、かなりの度胸が要る。結局、勇気ある入浴者は、I田さんと私と、あとは同行のご婦人のなかで一人だけだった。
時計回りに西へ進み、「大川の滝」を訪ねる。日本の名瀑100選に選ばれている滝で、落差98mとある。75度ぐらいの斜度の岩壁を幅広く流れ落ちている滝である。屋久島は山が直接海岸へ切り落ちているので、降った雨はほかに利用されることなくそのまま海へ流出してしまう。自然の循環そのままといえばそのとおりであるが、水資源という観点からはもったいない気がしないでもない。
そこから「西部林道」に入る。屋久島は西海岸が特に山が海に切れ落ちており、南西部の「栗生」から北西部の「永田」まで集落はない。道路も途中から海岸を離れ、山腹を走る狭い旧道のままである。樫の照葉樹林帯となり、山床も乾燥している。猿の群れが道の真ん中で毛づくろいをしており、車が来てもよけようともしない。ちなみに、「世界自然遺産」に登録されている対象区域は実は屋久島のこの部分の照葉樹林帯であり、屋久杉や「縄文杉」は含まれてはいないとHさんから聞いて驚く。実は私もそうであったが、ほとんどの人が誤解しているのではなかろうか。屋久島の人たちもこの「美しき誤解」をいいことに、敢えてそのことには触れないらしい。ま、「けしからぬ」とあえて目くじらを立てるほどのこともないが。
閑話休題。屋久島最西端にある、今は無人の「屋久島灯台」を訪ねたあと、「永田」を経由して屋久島最北端の集落「一湊」で小休止。海がきれいだった。屋久島の船の玄関口である「宮之浦」で昼食をとり、物産店でお土産を買う。宮之浦川をさかのぼり、その支流である白谷川の上流にある「白谷雲水峡」を訪ねる。水量豊富な急流が巨岩を縫って迸っており、色づきはじめた両岸の木々の装いと相俟って、その渓谷美は筆舌に尽し難い。ここには「弥生杉」があり、中流には吊り橋もある。ちなみにこの渓谷は、宮崎 駿監督のアニメ映画「もののけ姫」の舞台といわれているところである。ここをさかのぼり、峠を越えると昨日通過した「楠川分れ」に出ることができる。おそらく「宮之浦岳」に登ってきたらしい登山者パーティーにも出会った。
「宮之浦」からは、20分ぐらいで屋久島空港である。これで屋久島を完全一周したことになる。今日から3連休が始まる関係からか、空港には観光客が続々と到着する。若者が多い。
I田さんは、もうしばらく屋久島に滞在し、離島の旅情に浸るらしい。別送の組み立て自転車もちゃんと届いているから、交通手段に不自由はない。本気かどうかわからないが、前回来島時に目をつけておいた「楠川登山口」にある登山者用休憩所が風雨も凌ぐことができ、電灯、水道、トイレもあるから、快適な宿泊場所になるらしい。近くにスーパーもある。郵便物は、休憩所気付で送ってもらえば届くだろうと。混浴露天風呂の「木戸番」という「天職」にでもありつけたら、もう言うことはない。これぞ、究極の「自由人」生活ではある。
3泊4日の短い旅ではあったが、屋久島は、思い出に残る、実に楽しい時空であった。車の運転をしていただいたHさんと結局、私たち全員の「付け人」役を果たしていただいたI田さんをはじめ、同行の皆さんにはたいへんお世話になった。心から感謝申し上げる次第である。
(2008.11)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。