「鞍馬の火祭」は平安時代から伝わる洛北・鞍馬の由岐神社の祭礼であり、京都の三大奇祭のひとつとして有名です。毎年10月22日の夜に行われるこの火祭見物に今回初めてでかけてきました。単線・2両編成の叡山電車か徒歩以外に洛北の山奥からその日のうちに脱出する方法がないので、そのことを考えると億劫になり、長年京都に住んでいながらこれまで見物したことがなかったのです。今回、「奇策」を思いついたおかげで、想像以上にすばらしい「奇祭」をゆっくり目の当たりにすることができ、大いに満足しました。
この試みに参加したメンバーは、山の会の会員/会友のM本さん、O田さん夫婦、H間さんの皆さんと私の5名。「奇策」とは、祭が終わったあとの脱出をはじめから諦め、テント泊をして鞍馬に留まるということです。1週間前に下見をした結果、鞍馬の集落は谷の両側から山が迫っていて土地が狭いので人目につかない幕営適地はないことが分かりました。下手に問い合わせでもしたら駄目だと言われるに違いない。それでは「奇策」が成就しないので、なんとか見咎められずにテントを張るこのできる場所として鞍馬川の対岸の小高いところにある空き地に目星をつけておいたのです。
しかし、当日夕方、叡山電鉄の終点「鞍馬駅」に着いてびっくり、万余の見物人で通りはすでに埋まっておりました。人波をかきわけ、辛うじてお目当ての空き地にたどり着きザックをデポすることはできましたが、祭の核心部である鞍馬寺の山門(由岐神社は山門をくぐって登った山腹にある。ちなみに、火祭り自体は鞍馬寺とは関係ない)付近には近づくことすらできません。私たちは、そこから鞍馬街道を花脊峠方向へ少し歩いた家並みの一角の軒先に見物場所を確保し、持参の弁当で腹ごしらえをしてそこで祭を見学しました。各戸は座敷が開け放たれ、それぞれの「家宝」が展示されています。前庭には家族や招待された親戚の人々のための床几も用意されています。私たちもあとでこれに座らせてもらい、甘酒を振舞われました。
半月の薄明かりが夜空を山の端から切り取り、夜の帳が家並みを包み出す6時になると、祭りの始まりを大声で告げる白装束の「神事触れ」が通り、それを機に各戸のまえの篝火台の薪に一斉に火がつけられます。まず最初に、着飾った男女の幼児たちが親たちに手伝ってもらいながらミニ松明を担いで通りを練り歩きます。次に、裾丈の長い派手な上っ張りを羽織った小学生や中・高生の少年たちが、そのあと後述の勇ましい恰好をした若者たちが、年齢に応じてだんだん大きくなる松明を担いで「サイレイヤー、サイリョウ。サイレイヤー、サイリョウ」と掛け声をあげ松明を揺らしながら通りを往来し、気分を盛り上げていきます。最も大きい松明は100kgもあるそうです。若者たちのいでたちは、頭には向こう鉢巻、肩から二の腕にかけては船頭ごてをまとい、黒い締め込み、腰回りには紐状の下がりを垂らし、脛には脚絆、足には黒足袋・武士わらじを履いています。肌も露な、きりりとした伊達姿です。外国人のおばさんがこの若者たちの恰好を見て思わずセクシーと叫んでいました。松明の練り歩きの合間を縫って、外国人の男性が小さな松明を掲げて歩いてきました。どこかで見たような顔だなと思ったら、それはプロ野球千葉ロッテのバレンタイン監督でした。我らがM本女史は、「ボビー!」と黄色い声を張り上げ、バレンタイン監督からちゃっかりウインクをゲットしました。
8時を過ぎるとかなりの数の松明が往来を埋め、松明の赤い炎が夜空を焦がし、パチパチと火の粉がはじけ、祭は最高潮に達します。松明の練り歩きの後は、2基の神輿が松明のかがり火に照らされながら通りを巡行します。なんと、綱の引き手の大半と太鼓と鉦の打ち手は女性たちです。暗闇と炎が醸し出す神秘的で幻想的な世界、深夜の山奥で繰り広げられる勇壮な神事、老若男女を問わず、一家を挙げ、地域を挙げて1000年以上も伝統を絶やさずこの奇祭を護ってきた鞍馬の里人たちの心意気と誇りに感服し、感動を覚えました。多くの見物人の思いも同じだったと思います。
9時を過ぎたので、そろそろテント予定場所に戻り、テントのなかで祭の感動の余韻に浸ろうか思って対岸に目をやると、なんと我々のテント予定場所に通じる小道が鞍馬駅への迂回路にされ、投光機で煌々と照らされているではありませんか。テント予定場所はライトにまともに照らされ、丸見えです。しかも小道の入り口にも、遅々として動かない行列にも5m間隔ぐらいに消防署の職員が目を光らせ警護と規制に当たっています。これでは水ももらさぬ警備の網の目を突破してテント予定場所に戻ることはできません。折角の「奇策」も水泡に帰すのかと青くなりました。こうなったら、祭が終わり、警備態勢が解除されるのを待つほかありません。
11時近くになると、さすがに見物人の数も減ってきて通りの往来が可能になりました。迂回路の利用もとめられ、小道の照明も消されました。私たちが、2基の神輿が街道上手の「宿」に上っている間の一瞬の隙を突いて対岸に渡ろうとしたら、運悪く「もう迂回路を通る必要はありません。照明も消したので危険です」と警備の係員に呼びとめられてしまいました。とっさに、「この先に置いている荷物を取りに行くんです」と出任せの言い逃れをしてテント予定場所に駆け上がりました。係員に見咎められないように、ヘッドランプも点けずに手早く3張りのテントを設営しました。川を隔てた向かい側の通りを下手の「お旅所」に戻る神輿巡行の太鼓と鉦と掛け声をテントの中で聞きながら、心地よい疲れに包まれ夢路に就きました。どうやら、1,2の野宿者(それも外国人の若者)はいたものの、テント泊をした者はほかにはいなかったようです。「奇策」はまんまと成功しました。しかし、来年もこの手が使えるかどうかは分かりません。
23日は、宴のあとの人影もない早朝の鞍馬をあとにし、山越えして貴船に出ました。滝谷峠に登り、そこから緩やかな尾根道の「二の瀬ユリ」を歩き、叡山電鉄の「二の瀬」駅へ下山しました。皆さん、テント装備一式を担いでの山歩きはちょっときつかったようです。帰宅後O田さんから、夕方TVの番組で昨日の火祭の様子を放映するぞというメールをいただき、早速、その番組を観ました。私たちが近づくことができなかった祭の核心部をTVで観ることができ、祭の全体図がよくわかりました。とても充実した24時間でした。 (2007.10)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。