inside Millennium Stadium / TFDuesing
現在のミレニアムスタジアム(旧アームズパークラグビー場)
私は、アームズパーク・ラグビー場のグラウンドに降り立ち、ゴールポスト近くの柔らかいグラスのうえを歩きまわった。周りを見上げると馬蹄形の銀傘を戴いた観覧席がせり立っており、6万人収容のスタンドにしては狭く感じられた。・・・突然、耳を聾する大歓声が私を包み、トライをゲットした私は、何事もなかったかのように足元をみつめながら、ゆっくりと自軍サイドに戻っていく・・・。一瞬、まるで映画のなかの主人公になったような錯覚を覚えた。
アームズパーク・ラグビー場は、英国ウェールズの首都カーディフにある。私の勤務先だった会社がカーディフに工場を立地することになり、用地買収交渉のため現地に赴いたとき、法律事務所の若い弁護士が、私のラグビー好きを知って案内してくれたのである。アームズパーク・ラグビー場は、ご存知のとおり、英国ではロンドンのトェッケナム・ラグビー場とならび、テストマッチ専用の、古くて由緒あるラグビー場である。年間10試合ぐらいしか使用しないそうだ。
地元法律事務所の紹介とあって、マネージャーみたいな立場のひとがラグビー場の隅々まで案内してくれた。まず、ロッカー室。シャワー、バスタブ、男臭くてがらんとしたスペースにラグビー季刊誌が散乱していた。試合前の緊張、試合後の興奮がそのまま残っている雰囲気だ。貴賓室はメインスタンド中段中央の奥にあり、女王陛下を迎えることもあるだけに、バーもある豪華なしつらえである。壁には、観戦した女王陛下をはじめロイヤルファミリーや活躍した有名選手の写真が飾ってあった。そこから通路を歩くと直接スタンド中段の貴賓席に通じる。スタンドから眼下のグラウンドを眺めると、芝生の一部が色違いになっている。銀傘の陰で一年中、日が当たらない箇所の芝の生育が悪いためだそうである。なにせ、年間10試合程度しか使用しないグラウンドであるが、専任のスタッフがつきっきりで芝の手入れをしているとは、驚きである。
スタンドの一角にあるWRU(ウェールズ・ラグビー・ユニオン)のクラブハウスでは、丁度ユニオンの会合が開かれており、カクテルグラスを手にした幹部たちにいきなり紹介され、面食らった。会社がカーディフに進出した暁には、ぜひ、ラグビー場広告のスポンサーになってくれと頼まれ、二度びっくりする。アームズパーク・ラグビー場はWRUの所有であり、ユニオン傘下のクラブ・チームからの上納金で維持管理されているのである。クラブハウスには、歴代の役員、各国のテストマッチ・チーム、有名選手たちの写真、ユニフォーム、ボール、ペナントなどが所狭しと陳列してある。日本代表チームの、桜のマークのついた、赤白縞のユニフォームも陳列ケースのなかに飾ってあった。
カーディフは人口35万人の都市であるが、街自体は小じんまりとしている。アームズパーク・ラグビー場は、繁華街のすぐ近くにある。大きな試合があると、街中大騒ぎになるらしい。私が到着した夜、若者たちが缶ビール片手に外で大騒ぎしてうるさい街だなと思っていたが、あとでラグビーの試合があったためと聞いた。ウェールズの人たちのラグビーへの思い入れは半端なものではなく、とくにイングランド・チームへの対抗心は私たちの想像を絶する。これは昔、ケルト系のウェールズがアングロサクソンのイングランドに征服され、長い間抑圧されてきた歴史の怨念をいまだに引きずっているからである。後日、カーディフからロンドンへ移動するとき乗ったタクシーの運転手は、始めから終わりまでイングランドの悪口を並べ立て、州境の橋を渡るときには、これからいよいよ「敵地」に乗り込むぞと身構えたくらいである。2年ほど前に、久しぶりにウェールズがイングランドを10対9で破ったらしい。運転手君はその試合の模様を、手振り身振り、ウェールズなまりの英語でまくし立てた。興奮のあまり、ときどき両手をハンドルから離す。彼の早口はほとんど聞き取れなかったが、運転を誤りはしないかとハラハラしながらも彼の気迫に気圧され、適当に相鎚を打たざるをえなかった。
別れに際し、案内をしてくれたマネージャー氏は、10対9というスコアーを刺繍したWRUのネクタイと、その試合のウェールズ代表メンバーを収めた大判の記念写真を土産にくれた。持ち帰って大事にしていたが、これは私が持つよりも「ラグビー野郎」に持ってもらった方がふさわしいと考え、高校同級でラグビーに明け暮れていたM君へ贈呈した。
ちなみにアームズパーク・ラグビー場は、その後、開閉式屋根を持つ7万人収容のスタンドに改修され、名称も「ミレニアム・スタディアム」に改められている。NHK・BSの「ファイブ・ネーションズ・テストマッチ」の放映で、新装なったミレニアム・スタディアムを観るのが楽しみだ。
(2001.2)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。