ハイデルベルクの街並
2010年2月にベネズエラのギアナ高地を訪ねた帰路、私たち一行は西まわりのルートをとり、フライト乗り換え地であるドイツのフランクフルトに1泊することになった。フランクフルト空港到着が早朝だったので、丸々一日が空くことになる。南米の真夏とは一転して真冬の当地では、当初一行は美術館巡りでもして過すことを考えていたが、ふと私は、以前訪ねたハイデルベルクがフランクフルトからそう遠くなかったような記憶が蘇り、しかも電車で出かけたことを思い出した。
衆議一決、皆でハイデルベルクへ出かけることになった。不用な荷物を空港内の荷物預かり所に預け、空港の地下に乗り入れているドイツ鉄道(DB)の切符売り場へ急いだ。そこに行けば必要な情報が得られると考えたのである。英語が通じるので、窓口でハイデルベルクへ日帰り観光に行きたいというと、ルート、列車名、発車ホーム、発車時刻、急行・各駅電車の別、乗り換え駅名、ハイデルベルク到着時刻、料金などの情報をわかりやすくプリントアウトしたシートをくれ、英語で説明してくれた。なんと急行で行けばわずか1時間であるが、途中駅で乗り換える必要があるので、不案内の私たちは、30分余計にかかるが乗り換えなしでハイデルベルクへ直行できる10時過ぎ発の各駅電車を選んだ。駅構内の立ち食いスタンドで簡単な朝食をとり、ゆっくり電車に乗り込んだ。週末のせいか車内はすいていた。ドイツの冬空は雲が低く垂れ込め、いかにも陰鬱である。車窓からみえる郊外の風景は冬ざれの荒涼とした平地のひろがりであり、南下する電車の左側の遠くに山並みがかすんでいるのが見えた。これから向かうハイデルベルクは多分、あの山並みが平野に吸い込まれるあたりではないか。
私がはじめてハイデルベルクを訪ねたのは、もう30年も前のことだ。私の勤務していた会社がドイツの有名な光学ガラスのメーカーであるショット社と関係があり、何回かその本社を訪ねたことがある。その本社はフランクフルトから1時間足らずのマインツにある。最初に同僚と同社に出張したとき、今回と同様、到着が日曜日の早朝だったのでホテルへのチェックインもできず、いわば時間つぶしにマインツからハイデルベルクへ日帰り観光をしたのである。
ハイデルベルクはドイツ中西部にある中規模の古都であり、ドイツ最古のハイデルベルク大学のある学都として有名である。ライン河の支流であるネッカー河の河畔にあり、山腹にある古城の城址とアルテ・ブリュッケ(古橋)と古い煉瓦つくりの町並みが一体となった、まるで「メルヘン的な輝き」をもった風光明媚な町である。さらにこの古都を有名にしているのが、マイヤー=フェルスター著の戯曲「アルト・ハイデルブルク」にほかならない。1870〜1880年代のハイデルブルクを舞台にした、ザクセン州カールスブルク公国の皇太子カル・ハインリヒと下宿先である旅館のお手伝い娘ケーティーとの甘美で悲しい恋物語である。古き、よき時代のドイツ、希望と夢に満ちた学生生活が描かれており、この戯曲を読んだすべての若人たちをセンチメンタリズムへの陶酔に誘い込まずにはおかない。私たちの学生時代においても、この本は必読書のひとつであった。私が読んだのは角川文庫版だった。
実は私には、「アルト・ハイデルベルク」にまつわるほろ苦い思い出がある・・・。大学に入学して間もなくのころ、学友が、どういうわけか私にメッチェンを紹介してくれた。彼女は岡山県新見市の出身で、京都の某女子大文学部在学の、知的で清楚な感じの女性だった。色白で、ほっそりした体に純白のブラウスと黒のスーツの制服がぴったり合っていたのが印象的だった。学友も交えてお茶を飲んだあと、学友は適当な口実を設けて消えてしまった。生来、デートなんかしたことがなかった田舎からぽっと出の芋学生はこの事態にどう対処してよいかわからず、途方に暮れた。焦れば焦るほど、会話も途絶えがちになってしまう。とっさに田舎学生は通りすがりの本屋に飛び込み、読んだばかりだった角川文庫の「アルト・ハイデルベルク」を書棚から探し出して、彼女に進呈した。彼女がこの本を読んで同じく青春への陶酔感にひたり、そのことが共通の話題となって今後に繋がることを期待したのである。彼女は相手の唐突な行動に一瞬驚いたような表情をしたがにっこり微笑み、ありがとうといって受け取ってくれた。しかし、彼女からはその後なんの反応もなかった。彼女を紹介してくれた学友も首をかしげた。私の「窮余の一策」は見事失敗に終わったのである。今でもこのことを思い出すと、当時の自分のうぶさ加減がいとおしい・・・。
今回同行のHさんもハイデルベルクに着いたとき、皇太子カル・ハインリヒを宿舎の旅館に迎えたケーティーが花束をささげながら朗誦する詩、
遠き国よりはるばると
ネカーの河のなつかしき
岸に来ませるわが君に
今ぞささげむこの春の
いと美わしき花かざり
いざや入りませわが家に
されど去ります日もあらば
忘れたまふな若き日の
ハイデルベルクの学びやの
幸おおき日の思ひ出を
のメロディーを口ずさんだ。思わず私はHさんの横顔を見つめた。Hさんも「アルト・ハイデルベルク」に描かれた甘美なノスタルジーに陶酔した若者のひとりであったことは間違いなく、身近に「同病者」がいたことを知ったのである。
わが家の本棚の奥に「アルト・ハイデルベルク」が残っているはずだと探したが、見つからなかった。なにせ今から100年以上昔に書かれた戯曲であるだけに、図書館にあるかどうかも定かでない。ところが先日、九州に帰省したとき立ち寄った博多の古書店で幸運にも岩波文庫版の「アルト・ハイデルベルク」(番匠谷英一訳)を見つけ出した。奥付けをみると昭和10年3月30日発行とある。昭和10年といえば私の生まれた年である。つまり、75年前のことだ。作者はこの前年にこの世を去っている。価格は20銭。表紙の外題(タイトル)は右から左読み。セピア色にやけた表紙とすっかり変色したしみだらけのページが長い年月を表わしていた。この間、何人の持ち主の紅涙をしぼったのだろうか。早速、読み返してみたが、別離のラストシーンでは、つい目が潤み、文字がかすんできたことを白状しなければならない。
「アルト・ハイデルベルク」は、わが国でも熱狂的に歓迎され、1913年に有楽座で「思い出」という題で上演されて以来、新劇の劇団ほかによって繰り返し上演されてきた。新劇では、カル・ハインリヒ役に滝沢 修や友田恭助、ケーティー役に田村秋子や松井須磨子が当てられたことが記録に残っている。戦後においても、旧制高校的教養主義への郷愁もあってか、依然としてその人気は衰えていなかったのである。
ハイデルベルクの町並みは、ネカー河が山岳地帯から平野部に流れ出す箇所の河畔に沿って広がっており、古城の城址はその山鼻の中腹にそびえている。地形が西に向かって開けているので、入日のときが最も美しくみえるらしい。町の対岸、つまり右岸は小高い丘になっており、山腹には歴代の哲学者たちが散策したという「哲学者の道」が通っている。京都の「哲学の道」の元祖である。最初に当地を訪問したときは、この「哲学者の道」を、対岸のまるで一幅の絵はがきのようにメルヘンチックな情景を眺めながら回遊し、アルテ・ブリュッケを渡って城址へ登ったことを覚えている。ハイデルベルク大学創設当時、講義が行われたという広場にある古い教会を見学し、その近くの小さなレストランでドイツの伝統料理のひとつであるザウアクラウト(キャベツの酢漬け煮)添えフランクフルトソーセージとレバーのすり身煮を食べたことを覚えていた。今回も皆さんにお勧めし、同じ料理を賞味した。ドイツ料理は無骨で量も多く少ししょっぱいが、ビールを飲みながら食べると、味はなかなかのものである。
ハイデルベルク城の立地は自然の要塞としても恰好の場所にあり、中世初期にはすでにここに要塞が築かれていたらしい。16世紀の「宗教改革」、17世紀の「30年戦争」と、ドイツは相次いで混乱と戦乱に見舞われ、ハイデルベルクは破壊と荒廃の辛酸をなめることになった。ハイデルベルクの古城が過去の栄光をしのばせる廃墟として再認識され、古都ハイデルベルクのロマンチックな景観がゲーテなどにより再評価されるのは、ようやく19世紀に入ってからのこととされる。第2次世界大戦中、連合軍はこの町には一発の爆弾も落とさなかったらしい。占領米軍は戦禍を免れたこの地にGHQを置いた。おそらく米国の、自分たちが持っていない長い歴史への憧憬がしからしめたものであり、日本の奈良、京都を爆撃しなかった米国人の歴史への同じ思いが感じられる。
ハイデルベルクにはじめて大学が開設されたのは1386年秋のことであった。当時の広域ドイツ圏では、プラーハ大学、ウイーン大学につぐ創設であったが、現在のドイツ国でいえば最古の大学である。歴代の諸侯の庇護を受け、ハイデルベルク大学は順調に発展し、とくに16世紀には宗教改革運動の中心となった。ところが17世紀の30年戦争以降ドイツは都市も農村も破壊し尽くされ、学問も研究も衰退してしまった。ハイデルベルク大学がその栄光を取り戻すのには19世紀まで待たなければならなかった。ドイツが1871年に国民国家として統一されるのを機に、ハイデルベルク大学はドイツ・ロマン派文学の中心地となり、ヘーゲルやフォイエルバッハ、ルカーチといった哲学者やマクス・ウエヴァーといった有名な社会学者も活躍した。ハイデルベルク大学は、そのころ世界でもっとも自由な、もっとも国際的な大学であったとされる。しかしナチス時代には、多くの学者が迫害と弾圧の対象となり、当時同大学の中心的存在であった哲学者ヤスパースもユダヤ人であることを理由に国外に追放された。ここに、ハイデルベルク大学の輝かしい歴史と栄光は再び過去のものとなってしまったのである。
ハイデルベルク大学の校舎は街のなかに混在している。繁華街の通りに面した庭先に銅像が立っており、建物の雰囲気が商業施設とはちょっと違うなと思って表札を見たら、大学の心理学研究所だった。昔ながらの石畳の狭い通りは観光客でいっぱいだった。畳んだビニールのこうもり傘を高く掲げてガイドが先頭を歩く定番スタイルの若い日本人のツアーのグループも何組か見かけた。大学都市ハイデルベルクは、その数々の栄光の輝きが今や歴史のなかにしかないという意味では過去の町といえるだろう。古城の廃墟がそれを象徴している。今日、歴史のロマンと感傷のファンタジーを求めて古都を訪れる多くの観光客は、おそらくこの町全体が醸し出すノスタルジーへの挽歌を、無意識のうちに感じとっているのではなかろうか。
(2010.3)
ハイデルベルク城にて
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。