なぜ、いま?
全くの偶然のきっかけで、最初、肉眼で世界最高峰を見てみたいという、心の中に小さく宿った夢がだんだん膨らんでいき、とうとう現実のものとなってしまった。さして行動力に富んでいるとも思えない自分が、歩行距離150km、4週間にわたるヒマラヤの旅に出掛けることになったのは、いくつかの幸運な要因が重なったこともあるが、心の中に、生涯の思い出になるような体験をしておきたいという、老境に差し掛かったときに誰しもふと胸に抱く、鬱勃たる“思い”があったからである。しかも、その体験は、単に非日常的なものであるだけでなく、内面に変化をもたらす類のものでなければならない、と。
ヒマラヤへの旅は、きっとこのような渇望を満たしてくれるだろうという予感があった。
メンバー
メンバーは、当初数名いた参加希望者がだんだん減っていき、最終的には隊長を含めて3名となった。隊長は壮年の男性で、経験豊かな海外登山のベテラン。もう一人の隊員は、ヨーロッパのマッターホルンやモンブランへも登ったことのある、隊長と同年代の女性。いずれも、私が所属する山の会の主要メンバーである。雪山や岩場で訓練を受けたとはいえ未だ経験浅く、海外の、かつ、高所登山は初めての67歳の老人にとっては、マンツウマンのケアーをしてもらえる点で、願ってもないメンバー構成であった。
長い行程をキャラバン組んで
目的地は、ネパール東部のクーンブ・ヒマール山群地区である。歩くコースは、ルクラ(2840m)を出発点とし、いわゆる「エベレスト街道」を中心として、ドウッド・コシ本流、イムジャ・コーラの支流であるロブチェ・コーラ、最後にイムジャ・コーラ本流の3つの渓谷を遡る、かなり欲張ったもので、4週間を要する長丁場だ。
それぞれの源頭部には、ゴーキョ・ピーク(5483m)、カラ・タパール(5550m)、アイランド・ピーク(6160m)があり、各トレッキングコースのアタック目標として位置付けられている。これら3つのコースは、基本的には往復する形をとるので高低差を登ったり下ったりすることになり、期せずして次の、より高いピーク登攀への「高所順応」の役割を果たしている。
行程が長いことを考慮し、コック帯同・テント泊のキャラバンが編成された。現地スタッフは、ガイドのシェルパ1名、コック1名、雑役を担当するキッチンボーイ3名、ヤク使い1名、ヤク5頭、以上が常時同行メンバーであるが、ケースバイケースで、外にポーターが2名から5名使われた。
我々は、歩くときは、雨具、カメラ、行動食、水筒ぐらいしか入っていないデイバッグ一つという、言うなれば、殿様旅行である。
私は、後述のとおり「高度障害」で体力の消耗が激しかったため、隊長とガイドが私のデイバッグも持ってくれたので、私はコンパクトカメラひとつを首からぶら下げただけの空身。「山屋」としては、実に情けない恰好であった。意地を張って途中でダウンでもしたら、却って皆さんに迷惑を掛けることになるので、恥を忍んだのである。
高度障害に苦しむ
昼間と夜の温度差が30度もあり、体調管理が難しかったが、今回の山行で最も苦しんだのは、酸素希薄(標高5000mで平地の約半分)による「高度障害」だった。軽い「高度障害」なら、富士登山で体験した人も多いかと思う。時間の関係で、富士山で「高所順応」ができなかった私は、一抹の不安を抱えての出立であったが、まず、ナムチエ・バザール(3340m)に到着した夜から軽い症状が顕われた。体がだるく、何事も億劫になってくる。食欲もない。4000m台の標高へどんどん高度を上げていくにつれ、頭痛、吐き気、食欲不振等の症状がきつくなり、何とかゴーキョ(4750m)まで辿りついたが、私にはゴーキョ・ピークヘ登る余力はなく、隊長と二人で翌朝、高度を下げるため次の幕営地へ引き返した。高度を下げると、いつの間にか「高度障害」の症状は消えた。ただし、食欲だけは最後まで回復せず、体力を激しく消耗してしまうことになったのである。私以外は、より若いせいか、殆ど症状は出ない。
経験者から話は聞いてはいたが、想像以上に厳しい。空気が“薄い”ことが文字通り体感できるのだ。まるでスローモーションのように動作が緩慢になり、上りでは喘ぎながら数歩歩いては立ち止まり、深呼吸をして息を整えなければならない。緩慢になるのは動作だけではなく、思考能力も極端に落ちるようだ。アイランド・ピークの頂上アタックのとき、雪山登攀用具の装着も満足にできなくなるという始末だった。
ついに肉眼でエベレストを捉える
ドウッド・コシ川をイムジャ・コーラ川の分岐まで戻り、その上流の支流であるロブチェ・コーラ川を遡る。この川の源頭部にはエベレスト・ベースキャンプ(5365m)の幕営地がある。そのひとつ手前の幕営地であるゴラク・シェップから早朝、カラ・タパール(5550m)に登る。今回は順応がうまくいった。
頂上の北に伸びている尾根の先には、プモリ(7165m)がせり上がっており、右に向かって順に、リントレン(6749m)、クンブツエ(6665m)、チャンツエ(7553m)の銀白の峰々が連なり、さらにその右、東天の、ヌプツエ(7861m)の尾根の後方にエベレスト(8848m)の頂上がひときわ高く聳え立っているのが見える。ついにこの肉眼で捉えたのだ、世界最高峰を。直線距離にして、10kmもないだろう。端正な三角錐の山塊が朝日の逆光のせいか黒く光っている。雪煙も上がっている。世界中の野心に満ちたクライマー達を惹きつけ、数々の栄光と悲劇のドラマの舞台となったベースキャンプが、コルが、稜線が、アイスフォールが、クレバスが、すぐ目の前にあるのだ。近くの急斜面で発生した雪崩か落石の音がドーンと腹に響く。「地球の屋根」の一隅に今自分も立っているのだと思うと、言いようのない衝撃が、体内から突き上げてきた。この感動を永遠のものにすべく、「神々の座」を何枚も何枚も、カメラに収めた。
深遠なる心の旅路
最初のゴーキョ・ピークは失敗したが、カラ・タパールで宿願を果たすことができ、また、頂上からエベレストは見えないので、アイランド・ピーク登攀へのこだわりはそれ程なかった。その気持ちが余裕を生んだのか、体力的には限界に近かったが、アイランド・ピーク(6160m)にどうにか登ることができた。
3つの渓谷とも5000m前後の源頭部に来ると、そこはすべて氷河である。その末端は、堆積したモレーンが崖状に切り立っており、所々に氷河湖が青い水を湛えている。“動く地殻”を実感する一方、生物の存在を一切受け容れない無機質の世界を感じる。大自然の神秘と驚異の中では、人間はいかにも矮小であり、無力な存在だ。4000m近い高地の、文明と隔絶された過酷な環境のなかで、貧しくも逞しく、かつ、信心深く生きるネパールの人々の姿を見ていると、人間の真の幸せとは一体何なのか、深く考えさせられる。物質文明という“悪魔”に魂を売り渡してしまった観のある我々の生活の有り様が、根底から揺さぶられる思いがした。
また、下山後のカトマンズでの猥雑な活気、訪れたラマ教やヒンズウ教の寺院で見た光景は、異文化との遭遇そのものであり、強烈な衝撃を受けた。日本人が久しく封印してきた宗教、つまり、生と死の問題に、到る所で直面させられたのである。遠藤周作の「深い河」に描かれている心象風景そのものだった。
ヒマラヤへの旅は、井上 靖の「星と祭」の主人公のひそみに倣って、タンボチエ(3860m)のラマ教のゴンパ(寺院)で亡き娘の霊を慰めるという願いを抱いて歩きそれを実現できたという意味で、“巡礼の旅”でもあったが、極限の中を歩き続けるうちに精神が浄化され、“霊感”が心の底に沈潜していた“妄念”を洗い流してくれた。今回の山行は私にとって、まさしく“深遠なる心の旅路”となった。
(2002)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。