最近、私はひょんな縁から、30年も前に刊行されたこの本を読む機会を得た。知人のMさんから貸してもらったのである。Mさんも友人から、最近のNHKのTVドラマ「氷壁」放映がきっかけで、貸してもらっているのこと。したがって、私はMさんからの“また貸し”で読ませてもらったことになる。
著者の石岡繁雄氏は、昭和30年1月2日前穂高岳東壁で遭難死した若山五朗氏の実兄である。私もそのことは知っていた。当時確か、鈴鹿高専の教授だったはずだ。しかし、この本のことは知らなかった。若山氏の遭難事故は「ナイロンザイル事件」に発展し、“切れるはずのない”ナイロンザイルの強度をめぐって関係者の間で20年以上にわたって争われ、井上 靖の小説「氷壁」のモデルとなったことでも有名である。
「屏風岩登攀記」は、昭和22年に達成された著者等による屏風岩中央カンテ初登の記録として当初昭和24年に刊行されたが、昭和49年に全面増補改訂して名古屋の碩学書房から出版された。さらに、「ナイロンザイル事件」が最終決着したのを機に、同事件の一断面を加えた改訂版が昭和52年に刊行された。私が読んだのは、この52年改訂版である。今西錦司氏と井上 靖氏の序文が付されており、表紙の扉うらには石岡氏の直筆のサインが記してある。
この本は、ローカルでマイナーな出版社からの刊行だったので、おそらく一般には注目を浴びることはなかったのではないかと考えられるが、著者が当時の山岳界を揺るがせた問題の関係者であったことから登山関係者のなかには手にされた方も案外身近におられるのではないだろうか。いずれにしても、当時読まれた皆さんに比べれば、私の場合、“30周回”遅れの読書ということになる。(“周回遅れ”は、読書だけではない!)
今や「ナイロンザイル事件」の顛末も、小説「氷壁」のあらすじもおぼろげにしか 覚えていない私は、同事件の概要を再確認する恰好の生資料に接することができると意気込んだが、本書は、屏風岩中央カンテ初登の模様を詳述した屏風岩登攀記を中心とし、石岡氏の40年に及ぶ山とのかかわりを赤裸々に綴ったものであり、「ナイロンザイル事件」については、事件の最終結末を遭難現場にある弟の墓碑に報告する様子を淡々と述べた一章が加えられているにすぎない。その点では、ある種のもの足りなさを感じないわけではないが、本書の価値はそのことによっていささかも減じることはない。石岡氏は「まえがき」のなかで、「・・・私は(改訂版の)その度に、醜いものを吐き出し、結局、気がついたときには、五臓六腑をことごとくさらけだしていました。」と記しているように、単に技術的困難さや条件の苛酷さを描くに止まらず、屏風岩の中央カンテ初登をめぐる旧制八高山岳部後輩との確執、ドロドロした内面の葛藤、救出劇を含め屏風岩と人間との生死を賭けた闘いの状況等が、やや気負い気味の生硬な表現とも相俟って、息をつかせぬ緊迫感をもって描かれている。あたかも自分が岩壁にしがみ付いて進退谷まったときのような動悸の高まりすら感じる迫力である。そのほか、戦時中と敗戦直後の登山界の様子、用具も服装も、食料もままならぬなかでの若者たちの山に取り組むひたむきな姿は、微笑ましくも痛ましく、現在に比し隔世の感を禁じえない。同書に収められている当時の写真を見ると、戦闘帽あり、学生帽あり、布団を収納したと思しきドンゴロスの大袋あり、地下足袋あり、ゲートルあり、まるでヒマラヤのポーターと見まがうばかりだ。屏風岩中央カンテルートが、旧制中学3年生(17歳)2人と教師であった著者の「分業コンビ」(著者が観察し判断したコースファインディングに従い、身軽なA少年が先行する)で、投げ縄という奇抜な方法(器用なB少年がコースに点在するインゼルから張り出している潅木の幹に先端に重石をつけたロープを投げ、引っ掛ける)を考案して、逆層のハングやホールドのないスラブをクリアーして達成されたというのは驚きである。また、戦時中、釜トンネルがロケットの燃料製造工場になりかけた話は、上高地にまで戦争が忍び寄っていたことを示す秘められたエピソードだ。(余談ながら、著者が若山家の長男でありながら、なぜ石岡姓を名乗っているのかという下世話な疑問も氷解する。)著者は、出身地三重県で「岩稜会」という山岳会を組織し、鈴鹿の藤内壁をハイマートベルクにして、その後も北穂滝谷や前穂東壁を舞台に先鋭的な登攀を指導した。そのため、「岩稜会」は日本有数のアルピニストの集団といわれる存在になったのである。「ナイロンザイル事件」での20年を越える真相究明の闘いと弟の死を無駄にしたくないという執念は、ついに国によるザイルの安全基準制定という成果に結実した。著者の「不可能」に挑戦する強い意志、山に対する迸る情熱と真摯な取り組みの姿勢には感服のほかない。実に読み応えのある「人間ドキュメント」だった。
最後に、Mさんの友人がなぜ著者直筆のサイン入り稀覯本をもっているのかそのわけであるが、その友人は山が好きで若い頃北アルプスの山小屋で働いていたことがあり、当時、「岩稜会」関係者がその山小屋をよく利用していた関係で石岡氏とも面識があるそうである。かくして、Mさんと小説「氷壁」との間が、回り回って、細いながらも一本の糸で繋がったというわけである。奇しき縁というほかない。
このあと私は、大阪府勤労者山岳同盟がJR福知山線「道場」駅近くの岩場、「百丈岩」入り口に設置している墜落防止・確保訓練用の鉄骨製「やぐら」は実は、石岡先生の指導のもとに建設されたものであることを知った。「大阪労山」の幹部が何回も鈴鹿の石岡先生のご自宅にお邪魔してアドバイスを受け、先生の自宅敷地内に設置されている実験用の「やぐら」を参考にして設計したということである。私も2年ほど前に、この「やぐら」で60kgの砂袋を10mの高さから落としたときの、確保者が受ける衝撃がいかに大きいかを体験したことがある。春秋の筆法を以ってすれば、なんと「ナイロンザイル事件」は、極々細ではあるが時空を超え、私との間にも目に見えない一本の糸で繋がったわけである!
(2006.6)
(追記)石岡先生は、2007年夏に85歳で長逝された。なお、2007年1月に「あるむ」社から「氷壁・ナイロンザイル事件の真実」(石岡重雄・相田武男共著)が刊行されている。
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。