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歌声サロン・ラウム

晴登雨読人・坂田晃司のコラム

ジャンボ!キリマンジャロ

 

私は、この2月後半、山仲間と東アフリカのタンザニアを旅行し、その間、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロに登ってきましたが、このことが早速I垣さんの精巧なレーダー網に捕捉され、「同好会ニュース」(注、元勤務会社のサークル誌)に旅行記を投稿せよとの携帯メールが帰省先の九州にまで追っかけてきました。「原稿枯れ」に難儀しているらしいI垣さんのご苦労を少しでも軽減してあげなければという思いと、迂闊に応じれば皆さんから「あいつ、まだ生きていたのか」というブーイングの声の上がるのがオチではないかという思いとが交錯し、逡巡しているうちにI垣さんの気迫に追い詰められ、有も無もなく押し切られてしまいました。道中の雑感を思いのまま書きなぐってはみたものの、もとより独りよがりの冗漫な駄文ゆえ、もしお目通しいただく場合は、どうか、はすかいに読み飛ばしてください。

「輝ける山」へ
今回、アフリカ大陸への旅に参加したのは、旅行の主目的がアフリカ大陸の最高峰であるキリマンジャロ登山であり、後述するように長年にわたるキリマンジャロへの特別の思い入れがあったからである。
キリマンジャロという名前の由来は諸説あるらしい。その中では、スワヒリ語で「輝ける山」(キ・リマ・ンジャロ)の意味であるという説が最もふさわしいと思う。帰路の機上から、赤道直下の雲海の上に白雪を頂いたキリマンジャロが朝日を受けて光り輝いている麗姿を見たとき、白妙の富士山を仰ぎ見たとき感じるのと同じ霊感を感じた。まさに「輝ける山」、霊峰だと思った。
メンバーは11名、定年寸前の男性3名と飛びぬけて年長の私を除いた残りは、全員60歳なかばという日本国の人口構成を象徴するような「シニア登山隊」であった。そのうち5名は同じグループの山仲間であり、四六時中ジョークと野次を飛ばし合っては疲れを紛らわしていた。期間は、2008年2月17日から3月3日までの16日間。南半球のタンザニアはこの時期乾季の終わりごろで、登山活動の適期である。
関空からアラブ首長国連邦のエミレーツ航空でドバイまで11時間、さらにドバイからタンザニアのダルエスサラームまで5時間という長時間飛行に加えて、同日中にタンザニアの国内線でキリマンジャロ空港まで2時間の飛行という長旅で、夜半、登山基地のモシのホテルに着いたときには、一行は時差(6時間)による睡眠不足も加わって口も利けないぐらい疲れ果てていた。

高所順応
高所登山は、必ずしも若い人ほど、また体力のある人ほど有利であるとは限らない。標高5,000mになると空気中の酸素の濃度が平地の約半分になるので、富士山に登ったことのある人は経験されていると思うが、3,500〜4,000mを越える標高の山に登ると大抵の登山者は酸素不足のため、吐き気、頭痛、食欲不振、脱力などの高山病の前兆症状(これを「高度障害」という)に見舞われる。そのため、体を高所(つまり低酸素状態)に慣らすための「高所順応」(その効果は数ヶ月ぐらいしか持続しないらしい)が必要である。しかも高所順応のコツは、「クライム ハイ、スリープ ロウ」である。高所に留まっていればすぐに慣れるというものではないから、未知の高度に登って症状が出たら、一旦低地に降りなければならない。そのため、高所登山には、登ったり降りたりするための期間が必要となるのだ。この順応がうまくいかないと、ほかの条件が良くても登頂に失敗する。今回も、参加者のなかで3番目に若くて、国内の名だたる山を総なめしている頑健な人が、初めての海外での高所登山だった所為か食欲不振のため頑張りが利かず、キリマンジャロには登頂できなかった。
キリマンジャロ(5,895m)登山の場合は、普通まず隣国のケニヤにあるケニヤ山(4,985m)で高所順応をしてからタンザニアへ移動しキリマンジャロに挑戦することが多いようであるが、今回はケニヤの政情不安のため始めからタンザニアに入国し、キリマンジャロの西方100キロぐらいのところにあるメルー山(4,565m)で高所順応のための登山を実施した。ちなみにメルー山は、日本では、山容が似ていることから「タンザニアの磐梯山」と呼ばれているらしいが、名実ともにキリマンジャロの陰に隠れて、名前は売れていない。でも、登下山を通じていつもキリマンジャロの姿を眺めながら歩くことができ、期せずしてキリマンジャロ登頂へのモチベーションを徐々に高めていく効果があった。

メルー山登山
キリマンジャロもメルー山も火山活動によってできた山であり、登山道は砂礫状の箇所が多い。しかも乾季とあって足元から砂埃が舞い上がるので、呼気を護るため皆マスク着用かバンダナで覆面をして歩いた。まるで過激派武装集団のようだった。
メルー山登山の行程は、のぼりが山小屋2泊、くだりが1泊の3泊4日、キリマンジャロの場合は、のぼりが山小屋3泊、くだりが1泊の4泊5日である。両山はいずれも国立公園に含まれているから登山には許可が必要であり、登山者数はコントロールされている。特にメルー山の場合は登山ルートの殆どが大型の野生動物の生息地でもあることから登山者は安全のために山小屋に宿泊しなければならない。
登山隊の編成は私たちの場合、チーフガイド1名、アシスタントガイド1〜2名、コック兼ポーターが数名といったところであるが、メルー山の場合はさらにレンジャーが1名同道する。レンジャーというのは、登山者を大型野生動物から守り、野生動物を密猟者から守る公務員で、小銃を携帯し密猟者の逮捕権を有する。軍服に似たユニフォーム姿は一見ものものしいが、たいへん人懐っこく、野生動物たちのありかや生態を説明してくれた。現地のひとはみなそうであるが、視力のよさには驚嘆する。
山小屋は大体標高差1,000mごとにあり、メルー山の場合は最初の山小屋が2,500m、2番目の山小屋が3,500mのところにあった。登山ゲイトの標高が1,500mだったから、1日の行程は、最後の頂上アタックを除き、標高差1,000mを歩行時間5〜6時間かけてゆっくり登るわけである。息を乱さず、ゆっくりゆっくり(ポレポレ)歩くことに意味があるのだ。なお、山小屋での宿泊に必要な荷物はポーターが担いでくれるから、私たちは歩行時は行動食と飲み物とヤッケぐらいを入れたデイバックを持つだけである。
山小屋は、コテージ群、食堂棟、厨房棟、トイレ棟とからなり、コテージはメルー山の場合、1棟が8〜10室に分かれ、1室は2段ベッド4人収容である。マットと枕は備え付けられているが毛布等はないので、登山者は寝袋を持参することになる。食堂は50席ぐらいあり、パーティ毎に固まって食事をとる。コックたちは厨房で調理をした料理を食堂に運んでくる。料理は結構おいしかった。たとえ料理が口に合わなくてもバテないようにするためには、無理やりにでも食べ物を口に押し込み嚥下しなければならないが、今回は終始おいしくて、食欲は落ちなかった。トイレは水洗である。日本のシーズンピーク時の山小屋の超過密とトイレの不潔さに比べると快適さには雲泥の差があった。
登山者は主としてヨーロッパ各地から来ており、最近は米国人が減り、ロシア人が増えていると聞く。パーティは、それぞれお国柄が出ておもしろい。入山日が一緒であると最後の下山まで一緒の行動となるので、お互い親しくなる。
メルー山の場合ルートは、2番目の山小屋までは樹林帯やサバンナであり、サバンナには神経質なキリン、警戒心の強い水牛、険害な目つきのヒヒ等の群れが屯している脇を通り、最初はびっくりした。登山道には至るところに水牛の糞があり、時には生々しいものもあるので、「地雷」を踏まないように注意が必要だ。

>>食堂のヴェランダから、遠くキリマンジャロが雲の上に山頂を出しているのが見える。その長く尾をひく裾野からメルー山に至る100キロぐらいの間は森とサバンナであり、所々、湖が夕陽を受けて光っていた。その広大さに「アフリカ大陸」を実感する。食堂から外に出ると、薄暮の東天に満月が懸かっていた。月の色が赤っぽい。夜は満天の星空となる。こんなきれいな天の川は見たことがない。手を伸ばせば届くようだ。あたりは白日のように皓々と明るい。李白の漢詩「静夜思」の「牀前 月光を看る。これ疑ふらくは地上の霜かと・・・」の情景にぴったりだ。突然、あたりがほの暗くなる。月に叢雲でも懸かったのかと見上げると、何十年ぶりかの皆既月食だそうで、見る見るうちに月が闕け、ついに消えてしまった。一瞬あたりが暗くなる。富士山の標高と同じ高さの山上でこんな天体ショウに出会うなんて何と幸運だろう。再び月が満ちたあと東天にひときわ強く瞬いているのは、何という星だろうか。

朝の清々しさは格別だ。食堂のヴェランダから日の出を見る。東方、キリマンジャロ頂上右手の稜線の上の雲が茜色に染まり始める。アフリカ大陸の「かぎろひ」だ。やがて光条が一閃して真っ赤な太陽の先端が雲海を割る。それを受けてキリマンジャロの頂上の雪が金色に輝く。神々しくも壮大なアフリカ大陸の日の出だ。
反対側にある、眼前のメルー山の荒々しい岩肌はモルゲンロートに燃えていた。山小屋の周辺の森のなかは、鳥か猿か、鳴き声がかまびすしい。山小屋の周辺は動物の糞だらけである。夜中か明け方に山小屋の様子を窺いにきていた証しだ。まさに人間と野生動物との共存の図である。<<

最後の頂上アタックは、ヘッドランプを点けて小屋を午前2時に出発した。外側から火口縁に登るルートは砂礫状であり、靴が砂礫に埋もれて歩きにくい。夜明け前に火口縁に出て、そこからその縁をいくつかの小ピークを越えたり巻いたりしながら4分の1周したあと頂上への取り付きにたどり着く。明るくなって歩きやすくはなったが、今度は脱力のため足が前に進まなくなった。メルー山登山は高所順応が目的であるから、登頂には必ずしも拘ることはないのであるが、登頂できるに越したことはない。崩れかける気持ちを奮い起こしながら、最後、巨岩の堆積地帯を1時間ほど掛けて登攀し、9時に頂上に達した。
所要時間に個人差はあったが、全員登頂を果たすことができ、本番への希望をつないだ。実は私の場合、食欲不振や頭痛等の症状は出なかったものの、ヘッドランプを点けたとき視界がぼけ、足元の凹凸が識別しにくいという現象が出た。これは以前にも経験した症状であり、一種の「高度障害」である。加えて、空気が乾燥している所為か喉を痛めて鼻水が出、そのため鼻が詰まって口から呼気をするという悪条件が重なり、かなり悪戦苦闘を強いられた。
くだりは、片側が爆裂火口壁となって切れ落ちているリッジを辿りながら、暗闇の中をよくぞこんな怖いところを登ったのかと恐怖心を新たにした。奇怪な形をした小さなコニーデや一列に並んだ噴気孔跡など周りの奇観を眺めながら、各自、三々五々くだっていく。一旦2番目の山小屋で揃って昼食をとり休憩をしたあと、一気に1番目の小屋まで下山した。1日の行動時間が15時間にも達するワークであるからかなり体力を消耗して最後ヨタヨタの状態になるが、先述したように「高度障害」を和らげるためには、この方が有効であるらしい。
メルー山は、標高はキリマンジャロよりはるかに低いものの、思ったよりきつい山だった。

キリマンジャロ登山
キリマンジャロ登山基地であるモシのホテルに再び移動し、丸1日休養をしたあと、本番のキリマンジャロ登山に挑戦する。私たちがとるルートはマラング・ルートで、もっとも一般的なルートだ。頂上まで雪もない。登山口は、標高1,800mの国立公園管理事務所のあるマラング・ゲイトである。のぼりは山小屋3泊で、1番目の山小屋は標高2,727mにあるマンダラ・ハットである。ハットとは、ドイツ語のヒュッテと同じ意味で、山小屋のことだ。2番目の山小屋は標高3,720mにあるホロンボ・ハット、3番目の山小屋が標高4,703mのキボ・ハットである。山小屋の規模はキリマンジャロの方が少し大きいが、体裁と利用の仕組みは基本的にはメルー山のそれと同じである。
ルートは、標高に応じて最初は森林帯、次に草原帯、最後は砂礫帯となる。キリマンジャロ主峰(キボ峰ともいう)とマウエンジ峰(5,151m)との間の鞍部にあるキボ・ハットまでは斜度の緩やかな行程であり、右手にマウエンジ峰を巻きながら徐々に高度をあげていくもので、距離の割には高度が稼げない。ただ、標高が高い分、気温は低い。なお、キリマンジャロの登山ルートには大型の野生動物はいない。

登頂アタックは、ヘッドランプを点けて、午前0時に出発。小屋から出るといきなりジグザグの急斜面の砂礫登攀となる。火口縁のリッジ付近には岩場が出てくるが、技術的にはメルー山より難しくない。しかし私は、メルー山のときと同じく視界が翳む症状が出て、何回か躓いた。夜が明け始めた6時にギルマンズ・ポイント(5、682m)、つまり火口縁にあるピークのひとつに着いた。前方は眼下に火口原が広がっており、黒い岩礫に覆われた氷河の末端(モレーン)が見える。この氷河は赤道直下にある氷河として有名であるが、地球温暖化の影響のため融け出し、あと10年も経てばなくなるだろうといわれているものだ。
火口縁の最高地点(富士山でいえば「剣が峰」に相当)はウフル・ピークといって、一旦火口原に下り、そこをしばらく横切ってふたたび登り返さなければならない。さらに往復3時間を要するという。ギルマンズ・ピークに達すればキリマンジャロに登ったことになるので、ウフル・ピークを目指す「若手」のふたりを除き私たちシニアーグループは無理をせず、ここから下山することにした。くだりは富士山の「砂走り」みたいなところを一直線にザクザクと踵を立ててくだり、2時間でキボ・ハットに戻った。結局、登りのとき遅れ勝ちだった別の2名は途中で力尽きて、リタイアしていた。ギルマンズ・ポイントではマイナス5度であった気温は日が出るとどんどん上がり、次々に防寒着を脱いでいく。キボ・ハットで遅い朝食をとったあと、ホロンボ・ハットまで一気に高度を下げた。ここでも行動時間が15時間を越えたが、大仕事をやり遂げたという達成感も手伝い、夕方、無事山小屋にたどり着くことができた。

サファリ(1)
旅行の主目的であるキリマンジャロ登山を果たしたので、休養を兼ねてふたつの国立公園や自然保護区でサファリを楽しんだ。ちなみに、「サファリ」の語源はスワヒリ語の「旅」を意味する語だそうである。集落から遠くの原野へ狩猟にでかける旅のことを意味したのだろう。
1日目は、モシから西へ200キロほど車で移動したところにあるマラーニャ湖国立公園を訪ねた。途中、緩やかな起伏の草原地帯を走る。マサイ高原の一角だ。牛、ヤギ、ロバ等を追って草原を放牧して歩いているマサイ人の姿が多くなる。チェック模様の色とりどりのマサイ・ケープを纏い、細い棍棒を持った定番のスタイルだ。緩やかに波打つ草原にはミモザの木が点々と涼しげな梢を広げている。彼らの住居と思われる茅葺の家も点在している。周りには電柱や電線は見えないので、電灯のない生活をしているのだろう。
マラーニャ湖国立公園は、タンザニアで最も小さな国立公園であるが、アフリカ東部を南北に縦断して走っているグレート・リフト・ヴァレー(大地溝帯)の真上にあり、片方に高さ数百メートルの断崖と台地が、片方に草原や湖沼の低地が見渡す限りに広がっている。
サファリ観光用の車は中央天井部分が折り畳み式に開閉でき、それを押し上げ座席のうえに立つと、半身を有蓋の天井から出して遠くまで一望できる仕掛けになっている。私たちは、2台のサファリ車に分乗してサバンナを駆け巡った。
樹林帯や草原では、ヒヒ、インパラ(ウシ科、アフリカ大陸には鹿はいない)、ホロホロ鳥、バブルーと呼ばれる大型の鳥、フクロウ、イボイノシシ、ディクテクと呼ばれる小鹿、愛嬌たっぷりのブルーモンキー(サバンナモンキー)などの鳥や小動物を身近に観ることができ、また湖沼にはあたり一面を薄ピンク色に染める無数のフラミンゴの群れ、ペリカン、ときどき湖面に大きな顔を出しているカバを望遠することができた。 
草原の真ん中に象が1頭ゆっくり歩いていた。その象が進む方向に私たちの車が先回りして待っていると、だんだん近づいてくる。どちらかが譲らないかぎり、ぶっかり合うことになる。どうなることかとハラハラしていると、象は車の数十センチ後ろを何事もなかったように通り過ぎて行った。自分の進路を意地でも枉げようとしない、なかなか頑固な象であった。それにしても、こんな至近距離で野生動物を見るのは初めての経験である。遠くには、キリンの群れがた屯ろしていた。少し離れたところに、5〜6頭の像のファミリーがヌタ場で泥んこ遊びをしていた。とくに、2頭の小象は泥んこ遊びに夢中である。母親象がお尻を押してやっと小象たちをヌタ場から引き離した。ところが今度は、少年象2匹がヌタ場を独り占めしようと兄弟喧嘩を始めた。お互い四つに組んで押しくら饅頭に決着がつかない。声こそ出さないだけで、人間の腕白小僧とまったく変わらない。この公園では、木登りライオンが有名であるが、最近は滅多に見られないようである。

サファリ(2)
その夜は公園内の豪華なロッジに泊まり、2日目は「ンゴロンゴロ自然保護区」のサファリに向かう。ここは、ケニヤの一角も含む、東アフリカの野生動物の王国をなしている「セレンゲティ・エコシステム」という広域自然保護区域の一部であり、総面積は8,000キロ平方メートルもある。滋賀県の2倍の広さだ。今回実際に車で見物するのは、ンゴロンゴロ自然保護区の中心にある「ンゴロンゴロ・クレーター」(陥没火口原)である。その火口原は、標高2,400mから2,100mの外輪山によって囲まれており、平均直径は18キロメートル、面積は264キロ平方メートルで、阿蘇山(外輪山で囲まれた地域)に次いで世界で2番目の広さであるという。
ちなみに「ンゴロンゴロ」とは、諸説があるらしいがマサイ語で「大きな穴」という意味とのこと。ゲイトをくぐり、密林の中の赤土のデコボコ道をどんどん登って行き、火口の縁にある標高2,200mのヴューポイントに着く。いわば外輪山の一角に登ったことになる。眼下には広大なクレーター(火口原)が一瀉千里に広がっており、その雄大なパノラマに息を呑む。火口原まではここから600mぐらい下らなければならない。望遠鏡で覗くと、広大な草原の火口原には無数のヌーや水牛の群れの屯ろしているのが見える。砂煙をあげているのは、サファリ用のジープだろうか。ンゴロンゴロ火口原は中心に湖を抱くサバンナとなっており、キリンを除く、数百種という野生の鳥獣が生息しているのだ。この火口原のなかには、マサイ人以外は居住を認められていないそうだ。
坂道をくだり、火口原のサバンナに着いた。ヌーとシマウマの数がすごい。ヌーは、神様が動物の先祖を造ったとき、いろいろの動物の余った部分を寄せ集めて造ったといわれているように、なんとも不細工な顔、姿をしている。シマウマが最も耳のいい動物で、ヌーは最も鼻がいいそうである。火口原という「閉鎖社会」の空間にこれだけの数の大型草食動物(一説によれば25,000頭)がいれば、相当数の大型肉食獣(ライオンはここに70頭ぐらいがいるといわれている)を養うことができるだろう。何万年、何十万年という期間をかけてライオン等の大型肉食獣を頂点とする「食物連鎖」のバランスが成立したのだろう。「閉鎖社会」と言ったが、外輪山から外部へ出入りすることは物理的には可能であるらしいが、実際には入りこむ動物はいても、棲み心地がよい所為か出て行く動物はいないらしい。
サバンナの場所によっては過密気味に混住しているこれらの動物たちは、車や人間をまったく気にしていない。むしろ、彼らから見たら、人間もほかの「動物」と変わらず、その限りではまったく対等の立場であると言いた方がぴったりだろう(ちなみにヒトとチンパンジーとの全遺伝情報の中での違いは、わずか1.23%しかない!)。ユーホピア、クラウン・クレーン、アイビス(黒トキ)、ペリカン、フラミンゴ、いつもしっぽを振っているトムソンガゼル、イボイノシシ、ハイエナ、カバ、象、ダチョウ、ジャッカル、バッファロウ、サイ等々の群れが、それぞれ一定の割合で思い思いのスタイルで草を食んだり、佇んでいる。トムソンガゼルがお産をしているところも見た。ほかの肉食獣に見つからないうちに早く立ち上がれと、心が急く。べろりと胴の皮が剥げ、赤い肉がむき出しになったシマウマもいる。間一髪で難を免れたのだろう。
野生動物を、こんなに多く、こんなに身近に、こんなに長時間見続けたせいか、そしてなんのことはない、人間も哺乳動物の一種属に過ぎないという「事実」をあらためて思い知らされたせいか、どっと疲れを感じる。いつの間にか火口原の北の端まできていた。外輪山が目の前に迫っている。これから大草原を横切って、帰路につくことになった。とうとう、ライオンや豹を見ることはできなかった、と思った途端、前を走っていた車が止まった。車の天井から身を乗り出していた観光客が口に手を当て私たちに指差す方向を見ると、止まっている車のすぐ近くに牡ライオンが一頭蹲り、ハアハア喘いでいるではないか。こんな近くに野生のライオンが! 夢中になって写真を撮りまくる。ようよく落ち着いてつぶさにライオンの様子を観察すると、ライオンは激しく喘ぎながら立ち上がり2〜3歩くが、またへたり込む。あまりに喘ぎが激しいので、ガイドの運転手に、このライオンは病気で死にかけているのかと聞くと、「食事」をした直後なので満腹で動けなくなっているのだと言う。これで、近くの草食動物たちは2〜3日は安心して暮らせるということだ。「自然の摂理」の冷厳さに粛然たる気分になる。
最後の最後にライオンの姿を見ることができ、みんなすっかり満足し、火口原を後にした。モシへの帰路、ふと窓外に目をやると夕暮れのメルー山に綺麗な虹が架かっていた。頂上付近はうっすらと雪を被っている。小雨季の始まる前触れだろうか。

スワヒリ語
アフリカ固有の言語は800から1,000もあるといわれているが、東アフリカ地域で超部族言語として話されている言葉(つまり国語)はスワリヒ語である。スワヒリ語で日常もっともよく耳にする言葉は、「ジャンボ」だ。「おはよう」、「こんにちは」、「こんばんは」などに相当する挨拶の言葉であり、登山道ですれ違うときにはお互いこの言葉を掛け合う。ネパールの「ナマステ」と同じだ。挨拶語には、このほかに「マンボ・ポァ」もある。「ジャンボ」にしろ、「マンボ」にしろ、今まで日本でよく聞きなれた言葉であるが、意味も使われる状況もまったく違っていた。次によく聞く言葉は、「(ハ)アクナ マタータ」であり、これは“Don’t mind!”“No problem”という意味である。韓国語の「ケンチャナヨ」と同じ意味だ。「ポレ ポレ」もある。「ゆっくり、ゆっくり」という意味の言葉である。「ありがとう」は「アーサ」、「おいしい」は「タモサーナ」。
外国を旅行するときその国の人たちとうち解けるコツは、その国の言葉で少なくとも「こんにちは」、「ありがとう」、「おいしい」を覚え、これらを頻発することである。途端に、にっこり笑顔が返ってくる。仲間のひとりは、手帳に書きつけたスワヒリ語の単語をいくつか並べてガイドたちと「会話」を楽しんでいた。タンザニアは、植民地時代の宗主国が英国だったので英語が公用語になっており、町でも英語が十分通用する。

砂漠化
地球全体の砂漠化が問題になっているが、アフリカ大陸もその例外ではない。4年前の中央アジア、3年前にスペイン、ポルトガル、モロッコを旅行したときにも感じたことであるが、気候の温暖化、土壌の乾燥化が進み、いたるところで砂礫に覆われた不毛の「半砂漠」化が進んでいた。旅行する時期は乾季が多いので、とくにその感を強くしたのであろうが、日本の湿潤な気候とは対極にあり、その違いを痛感した。
当初、赤道直下の「熱帯雨林」に覆われたタンザニアを予想していたところ、海岸にあるダルエスサラームを除き、とくにメルー山やキリマンジャロ山麓のサバンナ地帯は意外に涼しく、朝夕は快適ですらあった。しかし、先述したように、モシから車で1時間あまり走っただけでも、周りには半砂漠化した荒漠地が延々と広がっていた。以前は、畑地だったようで、余計に痛ましい光景だった。
先日、NHKのテレビ放送でアフリカ大陸の砂漠化の問題をとりあげていたが、土地の砂漠化で作物も樹木も育たなくなり、新しい畑地を求めて森林の伐採が進んだため、それが不毛を招くという悪循環に陥っているとのことである。従来の部族間対立や内戦による「政治難民」に加えて、今や不毛となった土地を捨てて流浪する「環境難民」が発生しているようだ。森林の伐採は燃料の不足にも起因しているので、環境に負荷をかけないようなバイオ燃料の開発が急がれる。そのほか、象の増え過ぎもサバンナの砂漠化の一因ともいわれており、話は厄介だ。折りしも、TXで米国のスペースシャトル・エンデバー号の発射成功と土井さんらの宇宙での活動の様子が放映されていた。「宇宙」は私たちに夢をもたせてくれるニュースではあるが、地球の砂漠化は人類にとってより深刻な問題である。旱魃地や荒漠地を灌漑することは経済的にも、技術的にも決して不可能ではないと思うのだが・・・。「宇宙開発」はまさか、人類の「地球脱出」を見据えた、遠大な開発プロジェクトというわけ?!
帰路深夜、ドバイの中心街の上空を飛んだが、真っ暗闇の砂漠の中にまるで不夜城のように燦然と輝いていた。これは石油価格の高騰による「棚ボタ式繁栄」に過ぎず、これが永遠に続くとは到底考えられない。地球は、人間の際限のない欲望と愚行をいつまで許容し、支え続けることができるのだろうか。飛行機の窓から、複雑な気持ちで「砂上の楼閣」を眺めたことである。

ヘミングウェイの短編小説「キリマンジャロの雪」
「キリマンジャロ」という言葉を始めて知ったのは確か高校生のころで、ヘミングウェイの短編小説の題名「キリマンジャロの雪」によってだったと思う。ストリーはすぐに忘れてしまったが、小説のエピグラフにある「キリマンジャロは標高6,007メートル、雪に覆われた山で、アフリカの最高峰といわれている。その西の山頂は、マサイ語で“ヌガイエ・ヌガイ”、神の家と呼ばれているが、その近くに、干からびて凍りついた、一頭の豹の屍が横たわっている。それほど高いところで、豹が何を求めていたのか、説明し得た者は一人もいない。」という象徴的、哲学的な言葉の残すイメージが心のなかに深く沈潜し、その発音のアフリカ的響きと相俟って「キリマンジャロ」という言葉は、初めて知ったときから記憶にはっきりと刻まれていた。ヘミングウェイがなぜ自分の小説の題名に「キリマンジャロ」を選んだのかはよくわからないが、おそらく大自然への渇仰がそうさせたのであろうし、そのことによって大自然の象徴として「キリマンジャロ」のもつイメージがより鮮明になったことは確かであろう。ともかく「キリマンジャロ」は、文豪ヘミングウェイの心を捉えたように、アフリカの象徴であり、永遠性の象徴であり、それが持つ神秘性によって人々の心を魅了してやまない存在であることは、間違いない。今回、「キリマンジャロ」を登山基地のモシから朝夕身近に仰ぎ、また実際登ってみて、そのことを実感したのである。

青年海外協力隊員
私たちはキリマンジャロ東麓のモシを登山基地にした関係で、メルー山登山をはじめサハリ観光に出かけるときはその都度、右手にキリマンジャロの雄姿を眺めながら国道を西へ走った。最初のとき、モシからしばらく走り、大きくカーブした下り坂に差し掛かったところで、ガイドが車を止めた。ここからのキリマンジャロの眺めはすばらしい。カメラスポットかと思ったが、そのためではなかった。実はここは青年海外協力隊員5名が交通事故で死亡した事故現場であり、道路わきには慰霊碑があった。5名の殉職者の氏名と日本大使の弔辞が刻まれており、若くして異国の地タンザニアで帰らぬ人となった日本の若者たちの霊に私たちは黙祷を捧げた。
キリマンジャロ登山でも私たちは、日本人の男女4人の若者たちと相前後して歩くことになった。話を聞くと彼らは日本からタンザニアとマダカスカルに派遣されてから1年になる青年海外協力隊員だった。それぞれの専門分野で指導や援助に従事しているそうで、休暇を取ってキリマンジャロに登ったとのこと。彼らの発議でキリマンジャロをバックにして一緒に写真を撮ったが、控えめながら、きりりとした若者たちに大いに好感がもてた。このように遠い異国で多くの不便や身の危険にもめげず活躍している若者たちの存在は、日本の誇りである。

アフリカ大陸
私たち大方の日本人にとって「アフリカ」は、物理的にも心理的にも、「遠く離れた大陸」である。「アフリカ」と聞いてまず思い浮かぶキーワードは、おそらく、「サハラ砂漠」、「赤道直下の熱帯密林」、「サバンナ」、「野生動物の王国」といった言葉から、「人類発祥の地」、「奴隷貿易」、「植民地支配」、「アパルトヘイト」、「紛争・内戦」、「飢餓・貧困」、「難民」、「エイズ」等々まで、いろいろな言葉が浮かんでくるのではなかろうか。世界地図でアフリカ大陸の項を見ると、50ヶ国あまりの国境のかなりの部分が直線で引かれていることに気がつく。これは19世紀に、当時のヨーロッパ列強がベルリンで会議を開いて、住民の生活実態とはまったく無関係に机上で地図に線を引いて「無主の地」を分割・分盗った名残である。アフリカの諸部族は、狩猟や遊牧をしながら獲物を追ったり牧草を求めて移動生活をしており、もともと国民国家とか国境という観念はなかったのだ。とくに奴隷としての人身売買は、考えただけでもおぞましい行為であり、働き盛りの青壮年の男女(一説によると1,400万人)を、アメリカ大陸をはじめ異国の地に強制的に移動させ、苦役に従事させたことは、当人たちやその子孫はもちろんのこと、その国や部族の活力を殺ぐという形でのちのちまで影響を残すことになったのだ。
1950年代からアフリカの植民地は一斉に50余りの国家として独立を果たしたが、高らかな建国の理想とは裏腹に、その後、苦難の道が続いているのは周知の通りである。アフリカの人口は約8億人といわれ、地球全体の1割強にあたり、急増する人口、食料不足、水やエネルギー源の枯渇、地球温暖化、砂漠化、宗教対立、民族・部族間紛争、政権の腐敗、貧富の格差拡大等々の「地球の危機」が、とくにアフリカ大陸に集約的に顕れている観がある。

 

今回のアフリカ大陸への旅行は、キリマンジャロをはじめ雄大なアフリカの大自然、身近に感じる野生動物の息遣い、今なお「原始時代」と同居しているような、時流に超然とした人びとの生活の営み等々、見るもの、聞くもの、感じるもの、すべて驚きと感動に満ちた一日いちにちであったが、その半面、人類が地球を我がもの顔に支配し、浪費し、荒廃させている現状をアフリカの大地でも瞥見するにつけ、人類によって“ハイジャック”され傷みに呻吟している「宇宙船地球号」は一体どこへ漂流していくのだろか、その思いが全行程を通して通奏低音となった旅でもあった。(完)

 


 

●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●

2009年01月掲載 彼岸の山登り

2009年02月掲載 ヒマラヤへの旅

2009年03月掲載 石岡繁雄著「屏風岩登攀記」を読む

2009年04月掲載 京都の北山を歩く(雲取山・芹生の里)

2009年05月掲載 ジャンボ!キリマンジャロ

2009年06月掲載 アフリカを読む

2009年07月掲載 梅里雪山

2009年08月掲載 黒部川・上の廊下の遡行

2009年09月掲載 あわや冤罪に

2009年10月掲載 榊原さんのこと

2009年11月掲載 冬季大峰奥駈道完全踏破

2009年12月掲載 アームズパークラグビー場

2010年01月掲載 「丁丑感舊」の旅 第一回

2010年02月掲載 「丁丑感舊」の旅 第二回

2010年02月掲載 「丁丑感舊」の旅 第三回

2010年03月掲載 「丁丑感舊」の旅 第四回

2010年04月掲載 谷川岳馬蹄形縦走


晴登雨読人・坂田晃司〜自己紹介

坂田晃司プロフィール1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。

私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。

熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。

 


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