私は、黒部川の源流部から宇奈月までの全ルートのうち、まだ「上の廊下」の部分と黒四ダムから阿曽原までの部分が未踏破である。黒部川の全ルートのうち核心部はもちろん「上の廊下」の部分であり、この遡行が計画されたとき、日本有数の峡谷急流である黒部川完全踏破達成のための好機到来という単純な動機から、身のほども弁えずこれに飛びつき参加することにした。メンバーは、リーダーのHさん以下7名(うち女性2名)である。
期日は、黒部川の水量が最も少ない8月下旬が選ばれた。
第1日目(8月27日)
大阪を26日午後10時に出発したH車は、途中名神大津ICで坂田をピックアップし一路大町へ。扇沢発の始発トロリーバスで黒四ダムに降り立つ。今日の行程は、平ノ渡、奥黒部ヒュッテ、熊ノ沢出合の予定である。コースタイム上は平ノ渡の12時の渡し便には余裕をもって間に合うはずだったが、渡し場に着いたのは丁度12時だった。単独者を含む2パーティーと一緒に対岸に渡る。登山の途中、渡し舟で湖面を渡るとはなんと時代離れした“仕掛け”であることか。ここからの奥黒部ヒュッテまでは、最初は水平道だったが、途中から梯子のアップダウンの連続となり、辟易する。この長くてハードなアプローチは、厳しい「上の廊下」の前奏曲の役割を果たしているかのようである。
14:30に奥黒部ヒュッテに着き、登山届けを出したあとすぐ、東沢谷の川原で遡行の準備をする。15:00東沢谷を少し下り、黒部川本流に入谷する。30分ぐらい遡行したら、今日の幕営予定地である熊ノ沢出合に着いた。広く開けた河川敷にテントを2張り設営し、流木を集めて焚き火をする。テント泊の醍醐味は、この焚き火にあるといっても過言ではない。楽しい夕食がすんだあとは、睡眠不足と長いアプローチによる疲れのせいか、皆さん早めに就寝。寒さで夜中に目が醒める。シュラーフカバーだけでは、この時期の防寒対策としては不十分であった。
第2日目(8月28日)
今日の行程は、下ノ黒ビンガ、口元ノタル出合、廊下沢出合、上ノ黒ビンガ、金作谷出合、立石岩苔小谷出合の予定である。「上ノ廊下」の核心部と言ってもよい。
7:30に、M田さんを先頭に、I山さん、M本さん、S田さん、K保田さん、坂田、Hさんの順番で出発する。M田さんは、的確なルート・ファインディングと果敢な渡渉技術で、強力な助っ人ぶりを発揮する。いわば「虫の目」のM田さんに対してHさんは「鳥の目」、最後尾から大局を観るという役割分担である。難しい箇所では、HさんとM田さんが相談しながら状況判断をする。ちなみに「上の廊下」は、落ち込みは随所にあるものの滝といえるほどの大きな滝はなく、もっぱら急流の渡渉と淵のへつり(岩壁を蟹の横ばいのように水平移動すること)と泳ぎの連続である。巨岩をへつり気味に巻くことはたびたび強いられたが、高巻き(遡行不可能な滝を迂回すること)は一度もせずにすんだ。黒部川はこの時期がもっとも水量が少ないとのことであったが、水流は速く、冷たかった。渡渉の方法は、ロープを使う場合は、M田さんがまず渡り、ロープを張ったうえでカラビナ通しで、女性は男性のサポートを受けながら、場合によってはひとりずつロープを体に固定してたぐり寄せてもらって、渡渉する。水嵩が膝上ぐらいまでのときは、お助け紐を使ったり、そうでないときは女性を真ん中に男性二人が両脇から手をつないで渡渉する。水圧は思ったより強く、歩を進めるため片足を水底でにじり動かそうとするとそのまま脚が川下のほうに流され、思った箇所に脚が着かない。脚を掬われ全身水中に沈むことが何回もあった。とくに小柄な女性のM本さんとS田さんは苦戦気味であった。泳ぎも何回かあった。先頭のM田さんが、まず空身で目的地点まで泳ぎ渡り、次にザックだけロープで引っ張り寄せるのだが、まるでザックが自分ですいすいと泳いでいるように見え、緊張の中のユーモラスな光景であった。残りのメンバーはザックを担いだまま体に固定したロープをM田さんから引き寄せてもらいながら泳ぐ。私は遡行での泳ぎは初めての経験であったが、ザックの上蓋に後頭部がつかえて顔を水面から上げられず、水をがぶ飲みしてしまった。巨岩のへつりの場合は、残置のハーケンがあるときはそれを利用して、ロープで確保してもらって壁をへつった。確保はもっぱら力自慢のI山さんの役である。また、渡渉時にさっと手を差し伸べるK保田さんのナイト(騎士)ぶりには目を見張るものがあった。
スタートしてから約1時間遡行すると左岸に下ノ黒ビンガが現れる。ビンガとは、この地方で切り立った岩壁をいうらしい。岩壁はそそり立っており、いかにも威圧的である。このあと右岸から口元ノタル沢、左岸から廊下沢、右岸から中ノタル沢、左岸からスゴ沢が、交互に合流してくる。先述のとおり、本流には大きな滝はないが、流れ込む沢の多くは見事な滝となっており、目を楽しませてくれる。途中、旧黒五跡の広い川原があり、飛び石歩きで時間を稼ぐがそれもつかの間、難所がつぎつぎに現れ、これらをクリヤーしていくうちに、時間が少しづつ遅れ気味となる。上ノ黒ビンガに着いたのは正午を過ぎていた。おどろおどろしい岩壁だが、もう少々のことでは驚かなくなってしまった。さらに渡渉を繰り返しながら前進をはかるが時間はどんどん経過し、金作谷の出合に着いたときにはすでに15:30を過ぎていた。この先しばらくは幕営適地がないので、今夜はこの金作谷出合の右岸の川原で幕営することになった。普通、沢登りは涼しく、その分疲れが軽減されるが、“水圧との闘い”に今日はかなり消耗した。金作谷は薬師岳の頂上東面に広がるカール(スプーンで削りとったような圏谷)から落ち込んでいる谷で、出合付近に堆積した岩石の層のおびただしさには驚嘆するばかり。優しいイメージとは裏腹に、水のもつ暴力的な荒々しさとエネルギーのすさまじさを見せつけられる。川原は広いせいか流木が少なく、焚き火用の流木集めにメンバーは川原を東奔西走する。ゴロゴロした石ころの堆積地の間にもわずかながらオアシスのような砂地がある。そこをえらんでテントを張ったので、寝心地は快適だ。しかし、夜中に寒さで目が醒めてしまった。前夜の経験もあるので衣類を総動員して寝たがそれでも駄目だった。
第3日目(8月29日)
昨日の遅れをなんとか取り戻すため、少し早めに出発する。立石奇岩を過ぎるとそれほどの難所はないはずなので頑張ろうと気合を入れるが、渡渉とへつりと泳ぎで時間の経過の割には稼いだ距離は短い。右岸に赤牛沢、岩苔小谷が合流する。岩苔小谷は黒部川源流と岩苔乗越で分水して、黒部川本流とともに雲ノ平を抱いている谷である。昨年の今頃、Hさんと高天原峠から高天原温泉へいく途中、この谷の上流で幕営したことを思い出した。さらに曲がりくねった狭いゴルジュ(峡谷がとくに喉元のように狭まった箇所)を過ぎ、Hさんに指摘されて振り返ると右岸に立石奇岩が屹立していた。ただ必死に右岸から左岸へ、左岸から右岸へと難関をのり越えるのにいっぱいで、まわりの景観を眺める余裕を失っていたのだ。なるほど奇岩といわれるだけの、発射を待つ巨大ロケット・ミサイルみたいな針峰だ。上ノ廊下の核心部を2日がかりで越えたことになり、ほっとする。ここから上流はおだやかなコースとなるはずだが、それはあくまで核心部に比較しての話であり、数は少なくなったものの、渡渉に難儀する箇所が依然としてあった。
当初の予定では、今日は薬師沢小屋を越え、赤木沢出合あたりまで遡行することになっていたが、時間も3時を過ぎていたし、薬師沢小屋の近辺では人目がはばかられるので、大東新道の高天原峠の西直下にあたるあたりで左岸に砂地をみつけ、そこにテントを設営する。「上ノ廊下」の核心部を越えたという安堵からか、一同、達成感に満たされていた。I山さんは、なんと岩魚を3尾も釣り上げ、得意満面。ひとり1匹ずつの“公約”は果たせなかったものの、太公望の称号を手に入れた。相手かまわぬ舌鋒するどい“口撃戦”は最高調に達し、途中、薬師沢小屋でビールを仕込むはずの当てが外れアルコール抜きとなったものの、焚き火を囲んでの宴会はおおいに盛り上がった。その間、各自ぬかりなく、ウェットスーツを着たまま、つまり見事なボディライン(男性はメタボ的な)をむき出しにしたまま、火あぶりでそれを乾かしている。空には満天の星が瞬いており、谷の両側に迫る漆黒の稜線に天の川が天架けていた。まさに、至福のひととき。そういえば、入谷してからは好天続きである。
第4日目(8月30日)
大東新道の分岐点のあるB沢に達するのに1時間もかかってしまった。対岸の分岐点のところに2人づれの一般登山者を見かける。入谷してから初めてみる人影である。われわれが右岸の分岐点に苦労しながら渡渉するのを興味深げに眺めていた。そこから薬師沢小屋までは大東新道となるが、殆どが河川敷の飛び石歩きであり、さらに1時間かかった。薬師沢出合で「上ノ廊下」は終わり、ここから上流は「奥ノ廊下」と呼ばれている。ここでHさんが「上ノ廊下」の無事通過を小屋に報告。これにて、今回の遡行の主目的は達成されたことになる。あとはおまけみたいなものだ。「奥ノ廊下」は林さんも私も渡渉した経験があり、おだやかな流れである。赤木沢出合まで1時間。
9:50に赤木沢出合から赤木沢に入る。出合の淵は普通は泳がなければならないが、水量が少ないので難なく渡ることができた。いよいよ最後の行程である。赤木沢は私にとってはつい3週間前の遡行についで3回目であるが、何回登っても気持のいい沢だ。黒部川の荒々しい川相とは異なり、赤茶けたナメ床の滝の連続であるが、適当にホールドがあり、ロープを使うような局面はない。「上の廊下」の遡行はみんな“必死”であったが、赤木沢では感嘆の声をあげながらの遡行だ。途中、2回ほど高巻きをする。大滝の左岸の高巻きは垂直登でちょっとスリルがあるが、これも“ご愛嬌”の範囲だ。私は薬師沢小屋からの途中で沢靴の片方のフェルトソールが流失してしまい、ナメ床の岩がすべりやすいので、皆に遅れがちになる。最初の分岐を右にとって、正面に天空を画する赤木岳を目指しとことん詰める。それでも約3時間で源頭部に達する。赤木岳と北ノ俣岳の間の稜線下で大休止し、眼前にひろがる北アルプス中央部の山々を山座同定しながら着替えをすませる。沢登りの装備から解放され気分はさっぱりするが、ザックは重くなる。15:40に稜線の登山道に出、太郎平小屋への長い登山道をくだる。小屋に着いたのは5時前だった。車は、業者に扇沢から下山口の折立まで回送してもらう手筈になっているが、折立から有峰口への林道のゲイトが20時には閉まってしまうので逆算して太郎平小屋から2時間で下山しなければならない。さすがにみんな疲れきっており、2時間で折立まで下山するのはリスクが大きすぎるとの判断から、車を回送してもらって今日中に折立を脱出することは断念した。だだ、幕営を太郎兵衛平テント場にするか、遅くなっても折立まで下山して折立で朝寝坊するかの問題があり、衆議のすえ今日中に下山することになる。しかし、これはきつかった。ヘッドランプを灯しての急坂の下りは本当に応え、8時30分にフラフラの状態で折立に辿り着く。他の皆さんは、残った食材をかき集め、太郎平小屋から担ぎおろしたビール(折立ではビールは入手できない)で空腹を満たしたらしいが、私は疲れきって食欲もなく、折立のキャンプ場に着くなりテントのなかに倒れこんで寝てしまった。
私はこの1ヶ月後に、山の会の例会山行で黒四ダムから阿曽原経由で欅平までの「水平道」(旧「日電ルート」)を歩き、念願の、日本で有数の峡谷急流の黒部川の完全踏破を達成することができた。百戦錬磨の同行者の皆さんのお陰で、遡行の心構えをはじめ、情勢判断、渡渉技術、用具、幕営などの面で実戦を通じて経験者から多くのものを得ることができた。加えて、黒部川は年々川の相が変化しているらしく、天候やその時々の条件によって遡行の成否が左右されるので、その点でもたいへんラッキーだったと思っている。
(2005.8)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。