第二回(1)
激戦の古戦場に立つ
田原坂は、2回目の訪問だ。今回は、かなり下調べをして全体像とポイントが頭に入っていたので、効率よく回ることができた。植木の中心地へ至る入口にあたる向坂、豊前街道沿いにある明徳官軍墓地、植木天満宮(官薩軍が戦端をが開いた箇所)、小倉十四連隊長乃木少佐配下の旗手河原崎少尉(連隊旗を薩軍に奪われ、この「不名誉」の十字架を背負って生きた乃木将軍夫妻は明治天皇崩御の際、殉死した)戦死の地等を訪ねたあと、西に向かう高瀬往還に入り、七本の官軍墓地と薩軍墓地を訪ねる。官軍墓地は鬱蒼と茂った竹林に囲まれており、300体の墓石が整然と並んでいる。高い梢の若葉から漏れる薄い日差しが苔むした墓石を影から浮き立たせていた。近くの薩軍墓碑のある境内の一角には、熊本士族隊の墓碑もあった。田原坂三ノ坂上にある資料館で展示物や説明文に目を通す。両軍の銃弾が空中で衝突した「いきあい玉」も何個が展示してあり、銃撃戦のすさまじさが実感できる。資料館の西面のテラスから、谷を隔てて正面に二俣の台地が見渡せる。南西にかけ横平山、半高山の台地が広がっており、その後ろの三ノ岳との鞍部には熊本隊の佐々隊が死守奮戦した吉次峠がある。田原坂の戦いは、木葉川が流れているこの谷を隔てて北は田原坂から南は木留にかけて細長く対峙した台地陣地で一進一退の戦いが繰り返されたのである。
官軍、薩軍両方の戦死者1万数千の氏名を仲良く刻んだ慰霊塔に黙祷し、いよいよ、長く蛇行した田原坂を車で下る。急勾配を予想しがちであるが、一部を除き緩やかな坂道であり、こんなところでどうして17日間もの激戦が繰り広げられたのか首をひねる。今は両側は潅木に覆われているが、往時は小麦畑やみかん畑が広がっていたのではないかとの説もある。あとで調べたら、熊本城を包囲している薩軍の攻囲線を破って篭城軍を救出するためにはどうしても大砲が必要であり、この大砲を撃ちながら坂道を登ることのできる許容勾配ギリギリの攻撃ルートは、田原坂本道以外にはなかったことを知った。
一ノ坂に下り、木葉川沿いに木留に戻る。ここは、2月22日夜に田原坂で両軍が激突してから17日目の払暁、雨と深い霧にまぎれて巡査抜刀隊(会津藩出身者が多く、薩摩藩にやられた戊辰戦争のあだ討ちとばかり奮戦したという)を先頭に薩軍の薄い防衛線に切り込み、一挙に陣地戦の勝敗が決した場所である。官軍兵士の吶喊と、白刃きり結ぶ修羅場の阿鼻叫喚が空耳に響きわたり、思わず息を飲む。しかし、130余年を経た今、集落には人影もなく、五月の爽やかな風が照り映える若葉をそよがせていた。そこから三ノ岳へ通ずる農免道路を登る。あたりは長閑なみかん畑だ。頂上近くまで全山、みかん畑になっている。広い、立派な車道だったので、吉次峠に気が付かずに通り過ぎ、道端の標識を見て、引き返したくらいである。道端に、「佐々隊死守之処」と刻まれた石碑があり、近くの三ノ岳への登り口には公園風の場所があり、安達謙蔵筆の碑文が記された、大きな記念碑が建てられていた。峠の反対側にある半高山に登り、展望台から、東北方向に広がる田原坂台地を遠望する。慰霊塔の高い尖塔が光って見えた。往時茫々、時の移ろいを感じざるを得なかった。
薩軍が、徴兵どもなんか一日で蹴落としてみせると豪語していた熊本城も、篭城軍が踏ん張って陥ちなかったし、逆に官軍が圧倒的な火力でもって攻めたてた田原坂も、17日間も攻略できなかった。加藤清正の築城・堅守の才略が、図らずも300年後の西南戦争で立証されたことになる。
池辺吉十郎の墓
ここ三ノ岳の北麓からは、池辺吉十郎の墓所のある横島町はすぐ近いはずだ。みかん畑のなかの農免道路を西に下って、有明海に面した横島町を訪ねた。墓所は町の中心地から少し山手にいった公園の一角にあり、墓所の横にはモダンなモニュメントも建てられていた。池辺吉十郎の長男吉太郎(号は三山、明治時代の朝日新聞の主筆)が、刑死後長崎に仮埋葬されていた父の遺骨を父が生前住んでいた横島町外平に持ち帰り、有明海を望む小高い丘の上に弔ったわけである。正面南には三ノ岳が長い裾野を引いており、その左端に熊本士族隊が死守した吉次峠が望まれる。手入れの行き届いた墓所のたたずまいに、郷土が生んだ明治の英傑を偲ぶ地元の人びとの思いを、強く感じた。
ところで、写真でみる、ちょん髷・和服姿の吉十郎の風貌は、京都三条にある高山彦九郎像から受ける雰囲気にどこか似ていると思った。吉十郎は、当時としては彫りの深い、モダンな感じすら漂わせている顔である。白皙黒眉は、池辺一族の血筋だろうか。
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。