熊野古道
熊野古道は、今年(2004)、世界遺産に登録されたこともあり、是非一度歩かなければならない場所のひとつになっていたのですが、折りよく、山の会会員のM本 E子さんが「熊野古道・中辺路(なかへち)歩き」を計画してくれたのでこれに参加し、歴史と説話のロマンに浸りながら皆さんと楽しい霊場めぐりを体験しました。
熊野古道は、皆さんもよくご存知ですからいまさら喋喋することもありませんが、平安朝の上皇一行による紀伊半島翠巒(すいらん)に鎮座します熊野三所権現めぐりを嚆矢とし、中世の昔からいろいろな人びとがそれぞれの思いを込めて歩いた参詣道のことです。上皇一行による参詣を、とくに「御幸」といいました。川船や牛車や輿を利用し、数十日をかけて京都から往復したと伝えられています。もちろん、下級貴族や庶民は徒歩(かち)で歩かねばなりません。新古今和歌集の撰者として有名な藤原定家は、御幸に何回も参加し、詳細な記録を残しています。それによると、朝廷での位は低かった彼は、現代であれば会社の総務部長役で、道中の庶務雑用の差配に気苦労したらしく、屈託を行間に滲ませています。熊野古道は人びとにとって信仰の道場であったと同時に、実は人間味臭い煩悩の世界でもあったようで、私たちにとってもたいへん身近に感じられます。私たちは、自分たちを往時の「いとやんごとなき大宮人」に見立てて、熊野古道のさわりの部分を駆け足で辿り、「御幸」を追体験してみようというわけです。
中辺路ルートは主として平安時代の貴族たちが歩いたコースであり、歴史も古く、コースもよく整備されています。途中、往時の王子社跡も多く残されており、大辺路、小辺路、大雲取・小雲取、奥駆道など、いくつかある熊野古道ルートのなかで最も由緒あるものです。現在、中辺路ルートは健脚であれば2泊3日で通しで歩くことができますが、今回は5回に分けて大阪からマイクロバスを仕立てて日帰り(最終回のみ1泊)をするという趣向です。従って毎回、多少メンバーが変わりました。
では早速、熊野古道の語り部を自称するM本さんの陽気なキャラクターに囃されて、解脱の境地からは脱線気味の、一風変わった古道歩きに出かけましょう。
第1回目(9月26日)
参加者は、山の会の会員・会友、一般あわせて16名(うち、お嬢ちゃん1名)、多からず、少なからずの人数でした。大阪駅西口をマイクロバスで7:30に出発。
以前から熊野古道の魅力のとりこになっていたというM本さんは、地図やパンフレットをちゃっかりツアー会社の店頭からかき集め用意するという手際よさ。車中、初っ端からその思いの丈を惜しげもなく全開放、弁舌の滑らかさは朝から快調でした。そして、全行程を通じて、そのテキパキとした「仕切り」ぶりは、まるで水を得た魚のようで、まったく間然するところのないものでした。後日のために敢えて一言加えれば、今回は初対面の人も多く、自己紹介の機会があったならば、相互により親密に交流ができたでしょう。当日、M本さん唯一の”手抜かり”でした。
今日のコースは、中辺路の滝尻王子から高原熊野神社までの僅か6kmの短い道のりです。御幸・M本版は、中辺路を5回に分けて濃密に歩くというもので、それこそ道中の一木一草に古への思いを致そうというわけです。所要時間2時間余りのところを4時間もかけてゆっくりゆっくり辿りました。雨の多い地区とはいえ、かなり蒸し暑く、風もないので、汗がぽたぽたとしたたり落ちる有様です。2時過ぎに、今日のコース終点の高原熊野神社に到着しました。
神社の境内から、向こうの更に高い山の南斜面に、イーデス・ハンソン女史の住いが見えています。彼女がこんな露深い山奥に住んでいるとは、知りませんでした。熊野への思いは、はんぱじゃないですね。日本人として、ちょっとはずかしい気がしました。来年の山会の総会は、彼女の家を借りきってやったらと提案してみましたが、M本さんに一蹴されました。
バスで、第3回目のコースにある「上小野温泉・ひすいの湯」に寄り、汗を流します。パンフレットの写真にはちょっと誇大表示気味に出ていた温泉ですが、M本さんは、この湯を浴びたら美人になるという惹句にこだわったようです。それなりに鄙びた雰囲気ではありました。私は、先日の沢登りで痛めた左肘をギブスで固定していて左手が使えないので、入浴は遠慮しようとしたのですが、皆さんが(もちろん男性です)背中を流してやるからと言ってくれたので、それに甘えて入浴しました。ちょっとぬる目でしたが泉質はよく、皆さんのお陰で洗髪もでき、さっぱりすることができました。背中を流しながら、「これが若い女御だったらねぇ」なんて”不規則発言”もあったような気がするんですが、小生の空耳だったのかも知れません。
帰路もビールでいっぱい気分のM本さんの舌の高速回転は、もう止まる気配はありません。上沼 恵美子の後継が立派に勤まること請け合いです。M本さんの、知られざる隠れた才能に、皆さん、目を見張るばかりでした。それにしても、山の会は、多士済々ですね。
次回は、10月17日だそうです。定員の27名に達したら、情け容赦なく締め切ると啖呵を切っていましたが、彼女だったら本当にやりかねません。
第2回目(10月17日)
快晴のもと、峰々を吹き渡る爽やかな秋風を受けながら、第2回目のM本”姫”(「わて、何を隠そう、平安時代に御幸の途中行き倒れた、いとやんごとなきおひーさまの現身」と広言)による熊野御幸が執り行われました。第2回目の行程は、中辺路の高原熊野神社から牛馬童子までの10キロあまりです。「平成の熊野御幸」という幟を押し立てた籠ならぬマイクロバスに乗って随行するのは、19名の絢爛豪華な顔ぶれ。初参加の人も多かったのですが、今回は自己紹介の手順に抜かりもなく、最初から打ち解けた雰囲気が醸し出されました。総計20名の都びと(うち男性は4名のみ)は、11時過ぎに高原熊野神社から賑々しく御幸をスタートしました。
今回のコースは、途中、大門王子、十丈王子、大坂本王子などがポイントです。ちなみに「王子」とは、参詣道の途中に設けられた小さな社(やしろ)で、休憩所や宿泊所や場合によっては歌詠みの会場の機能を果たしていたようです。熊野古道には約100箇所の王子があったと言われています。コースは結構高く登り、かつ、下るのですが、比較的ゆるやかな斜度ですから、息が乱れることもありません。十丈王子で、昼食をとりました。M本さんお得意の”きわどい”話題で会話が弾みます。秋晴れの日曜日の割には、歩く人も少なかったのですが、大坂本王子付近に到るころになると行列ができ、”蟻の熊野詣”といわれたいにしえの賑わいが偲ばれました。
熊野古道は、王子を始め、随所が説話の舞台となっており、説明板やパンフレットに説明が出ていますが、今や熊野古道の語り部となったM本さんが、手短に講釈を加えてくれます。最後、第3回目の目玉ポイントである牛馬童子(夕日に照らされた小さな石像はとても印象的でした)をおまけとして訪ね、4時過ぎに大坂本王子のバス停留所に戻って今日の行程を終わりました。あとは、お楽しみの温泉入浴です。
今回M本さんが選んだ湯は、大塔村の露深い山里にある「乙女の湯」でした。美人になるだけでは物足りず、若返りも狙った魂胆が窺えます。「花の色は うつりにけりないたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」と古今集に詠われた花のいのちの儚さをちゃんと弁えたM本さんの飽くなき”向上心”とサービス精神には、またまた、感服のほかありません。その効あってか、湯上りの女御たちの自信に満ちた、晴れやかな表情は眩いばかりで、思わず息を呑み、圧倒されました。
第3回目(11月28日)
第3回目となる「中辺路御幸」は、小春日和のなか、いとやんごとなき女御達との楽しいおしゃべり歩きとなりました。
今回は、お伊勢参り的な脱線気味のM本版熊野御幸のうわさを聞きつけて、山の会から5名のヴェテランが参加しました。もっとも総勢19名の参加者のうち男性は、小生を含めてふたりのみ。”両手に華”の恵まれた境遇でたいへん幸せな一日を送れるぞと意気込んだのですが、所詮、老残の身には「光源氏」はいかにも虫のよすぎる祈請でして、”一炊の夢”ならず、残念ながら何のご利益もありませんでした。
さて、今日のコースは、「牛馬童子口バス停」から「小広峠バス停」までの、約8キロの行程です。中辺路古道歩きもいよいよ佳境に入り、牛馬童子像を始め有名な王子社跡、説話や歴史のロマンに彩られたポイントが数多く点在しています。この部分は、前後の険しい峠道を越えて出会う人里で、昔、「道中」とよばれていた区間だけに、今なお多くの旅籠跡が残っており、往時の熊野詣での賑わいを忍ばせてくれます。今も生活区域ですから、道路は舗装されています。しかし、峠道の脇にはススキの産毛立った白い穂先が逆光のなかに幽かに揺れており、道端の家の軒先には干し柿や、真っ赤な唐辛子が、白い障子を背景に初冬の柔らかい日差しをうけながらぶら下がっているといった佇まいは、中世と現代が何の違和感もなく渾然と溶け合っている趣を感じさせてくれました。特に、南方熊楠の尽力により辛うじて伐採を免れたという「野中の一方杉」の巨木には、歴史の重みを感じざるを得ませんでした。この大樹こそ、千古の昔から人々の生の営みを見つめ続けてきたのですから。
熊野古道歩きの「先達」であり「語り部」でもあるM本さんの弁舌の冴えはいよいよ際立ち、一同を笑いの渦に巻き込みます。今回の熊野古道歩きの楽しみの締めくくりは、本宮町にある「わたらせ温泉」入浴でしたが、この温泉は、これまでの鄙びた風情の温泉ではなく、広い露天風呂が特徴のようです。今回も”学者肌”のM本さんから、入浴に先立って、大衆浴場入浴時の日本人女性と西洋人女性の「所作」の対比について東西比較文化論の観点からの講釈がありました。あまりの卓見・高説に、ここで披露できないのが残念です。さすがに露天風呂は大規模でした。6槽あるうち5槽までが露天風呂でして、全部クリアーするうちに現世の垢離(ごり)をすっかり掻きおとすことができました。
和歌山県出身で、特攻隊生き残りの作家 神坂次郎は、中世の貴族や大衆が一様に浄土と見立てた熊野の森の恵みに浸ることを、「日光浴」や「森林浴」という言葉に倣って、「時空浴」と呼んでいます。大自然と歴史の異界に身を浸すことにより、ひとは心を洗い、心を癒し、心を豊かにすることができるということでしょうか。確かに熊野古道を歩くたびに心が安らかになっていくのを実感します。
次回は12月12日、いよいよ中辺路古道の核心部のようです。M本さんによれば、ここはいかにも熊野古道らしいコースであり、この箇所を歩かずして熊野古道を語る勿れと、”脅迫”まがいの熱弁を揮っていました。回数を重ねるごとに顔なじみも増え、おしゃべりの輪も広がってきます。なんとか全コースを完歩し、「卒業証書」をゲットしたいと意気込んでいる次第です。
第4回目(12月12日)
前夜の山の会の忘年会での牛飲馬食の”しごき”を大阪前夜泊という”裏技”でかわし、M本版第4回熊野御幸に参加。今回のコースは、小広峠バス停から発心門王子までの11キロの区間です。総勢18名、険路コースということで、今回に限り予めM本さんの厳重な”資格審査”にパスした精鋭メンバーです。視覚障害者の方もおりましたが、その健脚ぶりには脱帽しました。
M本さんの前口上の通り、このコースは、今までの区間と違って、”準登山道”でして、歩き応えがありました。健脚向きということで、多くの熊野古道ツアーではこの区間はカットされているそうです。途中、一軒の人家もなく、鬱蒼とした杉やヒノキの大樹叢の中をいくつもの急坂を登り降りしながら、ときに石畳を踏み、ときに土橋や丸太橋を渡りつつ、細道を辿ります。昔は山蛭が旅人に襲い掛かった難所だったところで、ところどころに廃村となった人家が石積みの上に崩れかかって残っています。王子跡は、熊瀬川王子、岩神王子、湯川王子、猪鼻王子、発心門王子があります。そのほか、蛇形地蔵、おぎん地蔵、船玉神社などがそれぞれの「縁起」や「いわれ」を体して、薄暗い山あいにひっそりと佇んでいます。日曜日というのに一日を通して出合ったのは、初老の夫婦連れの一組だけという寂しい道行です。あいにく昼過ぎから霧雨が降り出しましたが、3時過ぎ三越峠を越えるころになると雨は本降りとなり、初冬の日足の速さと相俟って、あたりは日暮れのように暗くなりました。一面の杉の木立が烟雨に霞む様はあたかも幽暗の魔界を彷徨っているような雰囲気で、これぞ熊野古道の神髄ではないかとの感を深くします。
音無川のほとりを下り、一行が終点の発心門王子に着いたのは5時近くになっており、あたりはとっぷり夕闇に包まれていました。帰阪の時間を考えると、今回は楽しみの川湯温泉入浴はカットせざるを得ません。この温泉は、皆さんの口吻から察するに、どうやら川原の一角に湧き出ている露天風呂で、事実上混浴のようです。M本さんは、自慢の美形を披露できないことをしきりに残念がっておりましたが、密かに満を持していたフシのある他の女御たちも同じ思いではなかったでしょうか。というのも、もともと女性には美肌を誇示したい本能があるのよ、と思わず真情を吐露してしまった古参女御もいたくらいですから。もっとも当方は、露天温泉入浴が中止になって心底ほっとした口です。
次回はいよいよ最終回、湯の峯温泉泊りでの熊野詣の締めくくりです。1月の月末に予定されています。熊野本宮大社に詣り、現世でのご利益をたっぷりお願いすることになります。また、小栗判官・照手姫の切なくもロマンに満ちた説経を涙ながらに語るM本節が聞かれることでしょう。第1回から通しで参加している閑人(ひまじん)は二人だけになっているようですが、次回を逃してはそれこそ「九仞の功を一簣に虧く」の類でして、なんとか全コースを踏破して、いにしえ人の思いを少しでも共有、共感しようと願っております。
第5回目(2月19〜20日)
去年の9月から5回に分けて中辺路ルートを辿る”M本御幸”もいよいよ最終回を迎えました。今回は、発心門王子からスタートし、熊野本宮大社に参詣したあと大日越えを経て湯ノ峯温泉の民宿に1泊し、翌日、そこから赤木越えを船玉神社まで往復するコースです。
参加者は14名。
今回、M本さんは、取って置きの”切り札”を切りました。なんと、サポート役として、ご主人を引っ張り出したのです。ご主人は、言わずと知れたYMCCの中心メンバーであり、大阪労山初級登山学校の副校長でもあります。まさに横綱に太刀持ちをさせ土俵入りをするようなものでして、一同にとってこれ以上の贅沢はありません。奥さんのM本さんの差配に従い、超大物サポーターは甲斐甲斐しく写真を撮ったり、難所では視覚障害者のサポート役を果たしたりの大活躍。これで旦那さんの「家庭サービス・マイルエージ」が大幅に跳ね上がったことは間違いありません(ただし、これまでの”累積赤字分”が一掃されたかどうかは聞き漏らしました・・・)。
天気予報では、午後からは雨が上がるとのことでしたが、逆にバスで移動中はいい天気で、正午前から雨が降り出しました。車中で昼食を済ませ、12:20に発心門王子をスタートしました。今日の区間はいよいよ熊野本宮大社を前にした、熊野古道の核心部へ到る区間です。交響楽で言えばフィナーレに相当します。水呑王子、伏拝王子、祓戸王子があり、長い月日を費やし、険阻を越え、多くの人々の情けに支えられ、ようやく聖地を目の前にしたいにしえ人たちの心の昂まりが伝わってくるようです。ところどころ車道を歩きますが、集落には無人で素朴な、お茶接待所や手作りお土産品小屋、野菜売り台、はては「猪追いの僧都」を利用した仕掛け人形などが旅人を迎えてくれ、梅の花が咲き競う早春ののどかな山郷の雰囲気が漂っています。
伏拝王子社からはるか東方に旧大社跡の杜(もり)が望見できます。ついに来たかと胸が高鳴ります。3時に本宮大社の杜に着きました。ついに来た、聖地に! 境内の規模は伊勢神宮に比べたら小さく感じましたが、社自体は素朴でなかなか荘厳な佇まいでした。とにかく、こんな山深い奥地に大昔からこのような壮大な社(やしろ)があるとは驚きです。もともと「熊野」は、自然崇拝を基本にいろいろな信仰が融合して、いわゆる神仏習合の、日本人の精神の故郷とも言える聖地を形成していることが実感されます。一同、4っのご神体にそれぞれの願いをこめて拍手(かしわで)を打ち、両手を合わせ、頭を垂れていましたが、皆さん、普段見せない真剣そのものの表情でした。そのあと、明治22年熊野川の洪水で流されるまで旧社殿が鎮座していた大斎原(おおゆのはら)を通り、雨の大日越えをしました。相当の登り下りでしたが、1時間あまりで湯ノ峯温泉の宿「小栗屋」に到着、雨に濡れた旅装を解きました。
熱い湯舟で冷えた体を温め、大宴会に移ります。もうすっかり打ち解けた一同、宿願を果たした開放感もあってか賑やかに楽しく、大騒ぎ。5ヶ月を掛けた長丁場の古道歩きに全部参加したのは結局私一人になり、M本さんから記念品を頂戴しました。よほどの閑人でなければいただけない賞です。宴会後は、熊野古道の語り部であり、宿の主人でもある古老が熊野の歴史について熱っぽく語ってくれました。クライマックスは小栗判官と照手姫の説教の紙芝居です。一同、哀しくも、ほのぼのとした物語にうっとりと聞きほれていましたが、なかには昼間の疲れが出たのか白河夜船の女御もいました。熊野は、他の聖地と違い、貴賎、男女、障害、浄不浄を問わずすべての人々を差別なく受け入れたところで、この説教はそのことを象徴する傑作であると言われています。中世の世から、熊野詣でについては多くの記録や巻絵物が残されていますがそれらは多くは貴顕のものであり、説話や伝承によって語り伝えられたものの中にこそ、来世の幸せを願って難路を越え、苦難を忍び、なかには道半ばで行き斃れになる虞をも顧みず、長い道のりを辿った、多くの名もなき庶民のエネルギーと偉大さが汲み取られるように思われます。我々も、昔の人びとの切ない願いに思いを馳せながら歩いた道行でした。
翌日は、前日とはうって変わって素晴らしい天気となりました。熊野権現のご利益が早速顕れたと一同大喜び。こんなに霊験があらたかであれば、もっと大きな願い事をしておけばよかったとの声もあがったほどです。ただ、T井さんは、風邪気味なので滞留して「つぼ湯」での湯治に専念することになりました。8:30に赤木越えに向け宿を出発。1時間ほどは急な登りですが、あとはなだらかな尾根歩きです。春のうららかな日差しを受け、果無山脈を始め重畳たる周りの山並みを望見しながら歩けるすばらしい山道でした。最後20分ぐらい音無川に向け急坂を下り、船玉神社前に11:10に着きました。第4回目に、夕闇せまる雨の中を下った箇所です。30分ほどゆっくりしたあと、再び同じ道を戻ります。帰り道には、代わる代わる視覚障害者のサポート役を務め、一同貴重な経験をさせてもらいました。13:50に湯ノ峯温泉に戻り、遅めの昼食をとり、温泉に入浴したあと帰路に着きました。
こうして、5ヶ月間をかけ5回にわたって紡いできた中辺路”御幸”も無事終わりました。メンバーもほぼ固定し、皆さんとご一緒に歴史と説話に彩られた古道を歩くことができたことは、とても楽しく、心に残る旅路となりました。とくに、障害者登山者のグループ「かざぐるま」の皆さんとの交流からは「熊野詣で」の神髄のようなものを学びとらせていただきました。さしずめ「藤原定家」役、いや短歌ならぬジョークを飛ばしながら身を粉にして総務部長役を果たしてくれたM本さんをはじめ、ご参加の皆さんには大変お世話になり、ほんとうにありがとうございました。また、ぜひ、どこかの霊山で”心の旅路”をご一緒しましょう。
(2005.2)
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。