第三回(1)
事実は小説より奇なり
十一番小隊の隊士であった池辺源太郎翁が九死に一生を得たエピソードというのは、次の出来事である。長くなるが、財津君の尊父永記氏が99歳のときに書き残された「今にし思う西南戦役 丁丑感旧録語りかける」の文章の中から関係箇所を引用しよう。その方が、より迫真力があると思うからだ。なお、この文章の表現は現代語に近いことばになっているが、宇野東風編「硝煙弾雨 丁丑感旧録」のなかにあるものと同内容である。
「・・・この寺田における大激戦に苦境に立った池辺大隊長も、前進隊とともに敵軍に包囲され追い込まれ、残兵僅か三十余人、村内の神社境内に逃げ込んでいると、東軍(官軍のこと)、付近の民家に火を放ち攻め来る。かくなれば死をもって当たるほかなしとして、刀をふりかざし奮戦すれば、敵恐れをなして退き、一条の血路を開き、脱出するを得た。このとき、池辺大隊長は敵弾をうけて左腹部に負傷したが、それにも屈せず、衆に先んじて奮戦した。
池辺大隊長、財津十三番小隊長、津田同隊隊士、遠坂十番小隊長、八木十番小隊隊士とともに寺田の重囲を脱出して背進せんとするとき、敵弾雨の如く飛び来るなかを避けて林のなかに身をかくし、銃撃やや静まるを待って後退していると、路傍の小屋に怪しげな物音に気づき、二人が覗いてみれば、白布の肩章に西澤文三と記したわが軍の兵士を発見、この兵士重傷を負い、短刀をもって咽喉を刺して苦悶しており、二人を見ると、声を発することも出来ず刎首を乞う時に、敵の捜査隊数十人が襲い来たので、なんら施しようもなく、二人は林中に這入り、その部落の古材木小屋に潜みつづけた。
夕陽西に傾くころ、喇叭を吹き鳴らしながら、四方に散在していた敵兵が高瀬に向け退いたので、二人は大風一過の思いで日の暮れを待って小屋を出て、付近の農家に至り、困惑の事情を告げ、飯食を乞うた。農家の主人、その事情を聞き及んで、それはそれは、と家の中に迎え入れ、その無事なりしことを喜び、濁り酒や粟飯を供し、歓待した。二人はその厚意に感謝して、午後八時頃辞去せんとするとき、今日の義軍(薩軍のこと)の一敗せしは我が百姓らの失望せしところとその主人は残念がり、我が家もまた必ずや東軍のため焼かるべしと思い、家具悉く屋外安全の地に移したが、義軍の一人来たってその危うきところを助けて、わが家に潜めせしめたという。二人は、それではと家中を見回ってみれば、長持ちの中から現れたのは、十一番隊の池辺源太郎という兵士であった。同人が語るところによれば、今日の激戦、優勢なる敵の挟撃を受け、多数の死傷者を出した。私もまた敵の追撃を受けて、逃れざるところを当家の主人の義侠心によって助けられた、という。
この池辺源太郎の語るところによれば、味方に離れ敵中に陥り、その逃れ難きを察し自決せんとしたとき、農夫が助けにきたのでその家に誘い込み、長持ちのなかに匿(かくま)って貰ったところ、敵兵数人が追尾し来たって、いま賊兵がこの家に這入ったところを見届けた。ここにその賊兵を出すべしという。主人、そのような者はいないと平静を装って返答すると、敵兵、家の内外を捜索し始めた。その一人は、池辺が潜んでいる長持ちの上に座り込み、他を指揮していた。池辺、長持ちのなかで捜索している音を聞きながら刀を抜いて、若しも長持ちの蓋を開けたら直ちに切り込む構えを見せていたが、敵は探し得ずして立ち去った。長持ちより出た池辺は、食酒の饗をうけて、午後九時半頃同家を出て、同伴の津田、八木とともに三人で吉次峠へ向かった。・・・」
最近、この事実を知った池辺君は、そのとき祖父が助かっていなければ、今の自分はこの世に存在していない!と天を仰いだらしい。いっぽう、永喜小隊長と若き源太郎隊士はそのとき、自分たちの孫同士が同じ高校の学舎で同級生として学び、祖父たちの戦場での奇跡の生還と出会いを130年後にふたたび偶然に知って驚嘆し合うという奇縁をいったい想像し得たであろうか。運命の摩訶不思議なるわざに、ただただ絶句するほかない。なお、源太郎翁は、その後、済々黌の前身である同心学舎の初代舎監を勤められたということである。
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。