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歌声サロン・ラウム

晴登雨読人・坂田晃司のコラム

「丁丑感舊」の旅―西南戦争の足跡をたどる―

第一回(2)

 

天守閣熊本城天守閣

ゆかりの地巡りでは、まず、熊本城天守閣を訪ね、この4月に生まれた初孫を「一口城主」(補修工事資金として1万円を寄付すると「城主」として天守閣に名鑑を掲げてくれる)に登録したあと、天守閣3階の西南戦争関係展示室で、西南戦争の「戦跡」を辿った。田原坂にある資料館の展示にはやや劣るが、両軍が使用した小銃の比較で、官軍のスタール騎兵銃(先込め式)と薩軍のエンピール銃(後込め式)の違いを知った。外観は殆ど変わらないが、後込め式は銃弾の装てんに時間がかかるうえ、雨に濡れると発火しないという致命的な欠陥があると。田原坂の陣地戦は17日間も続き、そのうち7日間が雨だったことは、薩軍苦戦の原因のひとつになったことが容易に理解される。抜刀接戦では、士族出身からなる薩軍の方が、百姓からの徴兵が主体の官軍より有利と考えられていたが、兵器の差は、薩軍にボディーブローのように効いてきたのだ。佐々友房が獄中で着用していた色褪せた赤い獄衣(「赤着物<あかぎもの>」といわれていた)も展示されていた。獄中での彼の胸中に思いを馳せる。何かの本で、池辺吉十郎の辞世の自筆漢詩が展示されている旨書いてあったと思うが、私の思い違いだったのか、ここにはなかった。天守閣からの眺めは、戦跡をわが目に再現させてくれる。「不平士族」のマグマのひとつ、神風連が前年挙兵した花岡山はまさに指呼の間にある。西から西北に向かって、一ノ岳(金峰山)、二ノ岳、三ノ岳が並び、その右手に吉次峠、田原坂などの古戦場方向が遠くかすんで見える。田原坂は熊本城から20キロぐらいしかなく、実際にこの目で見ると、意外に近いという印象だ。

熊本士族隊出陣の碑

実家のある健軍への途中に、「健軍神社」があるが、大鳥居前の道路右角に「熊本士族隊出陣の地」と記した石碑がある。士族隊1300名がここに集結したのだ。神前に必勝を祈願し、池辺吉十郎を隊長に推挙したあと、植木方面に向かった。彼らの鬨の声が聞こえてくる思いがする。

薩軍敗北の要因のひとつによく作戦上のミスがあげられる。山県有朋陸軍卿は、薩軍が採るであろう作戦として、@軍艦を利用して、直接東京か大阪を衝く、A長崎と熊本鎮台を襲い、全九州を破り、その後、中央を衝く、B鹿児島に割拠し、全国の動揺を窺がい、暗に国内の人心を測りつつ、時機に投じて中央を破る、のいずれかであろうと想像した。しかし、薩軍はこのどれも採らず、いたずらに熊本城にこだわり、この一点に全力を挙げ、しかも攻めあぐねて長期戦にはまった。熊本城は炎上したが最後まで落城せず、態勢を整えた官軍と田原坂での激戦に臨むことになる。そのうちに腹背に官軍の反撃をうけ、窮したあげく、敗走するに至ったのである。信じがたいほど粗暴な作戦といわれている。

 

 

小峯墓地

熊本滞在中に、弟の車で植木方面へ出かけた。まず、竜田山南麓の「小峯墓地」を訪ねる。旧制五高(現熊本大学法文学部)の北に位置し、近くにはリデル・ライト ハウスや歴代細川藩主の墓所、泰勝寺もある。一帯はなだらかな高台で、眼下に旧制五高や済々黌のキャンパスが、その向こうには熊本の市街地が広がっている。広大な墓地の中心部に、ひときわ大きく、立派な境内があり、真ん中に見上げるような石碑があった。「丁丑感旧の碑」とある。その後方には、「丁丑殉難之碑」と刻記された石碑もあった。これらはすべて、熊本士族隊関係者の記念碑である。すぐ近くに、佐々友房の墓所があった。こちらも十数段の石段を登る、堂々たる構えだった。これらのモニュメントの、予想をはるかに超える立派な結構に圧倒される思いがする。

小峯墓地からは西方に、熊本城から北に台地が田原坂方面へ伸びているのが見える。現在は国道3号線が走っているが、加藤清正が熊本城を築城したとき、北方の守りの要として北に伸びているこの台地の尾根部分に1本だけ往還をつくった。「豊前街道」である。しかもその往還を、荷馬車1台が通れるだけの道幅にし、かつ道路部分を凹状にすることによって、外敵がこの往還を通って攻めてきたとき、どこでも両側から敵を攻撃しやすくしたと伝えられている。田原坂は、両側を谷で守られたこの台地の最北端にあり、西南戦争当時、攻守の要として17日間もの間、ここで激戦が繰り広げられたのである。

丁丑感旧の碑

第2回へ続く…(2月1日掲載予定)


 

坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー

2009年10月掲載 榊原さんのこと

2009年11月掲載 冬季大峰奥駈道完全踏破

2009年12月掲載 アームズパークラグビー場



晴登雨読人・坂田晃司〜自己紹介

坂田晃司プロフィール1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。

私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。

熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。

 


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