第四回(2)
敗者の側の声なき声
今回、戦跡やゆかりの地を訪ねてみてあらためて感じたことのひとつに、そこに建てられている記念碑や墓碑が、想像以上に大きく、立派であったということがある。しかもそれらの多くが薩軍側にかかわるものであったことに、意外の感にうたれた。西南戦争は、公式評価のいう官と賊という単純な図式で割り切れるものではなく、敗者の側からの言い分にも思いをいたしてほしい、彼らは彼らの信じる「大義」に殉じたのだということを理解してほしい、この願いを長く後世に訴えたい、このような少数者の声なき声、熱い思いが、これらの堅固で立派なモニュメントをつくらせたのではないかと、ふと思ったりした。
加えるに、日本人の「判官ひいき」も否定できないだろう。また、冷徹な理性より温かい情感に惹かれる日本人の性向も微妙に作用しているだろう。西郷対大久保の対比には、この国民感情が背景にあることはたしかである。東京上野公園にある愛犬の柴犬をつれた西郷の薩摩かすりの筒袖短衣・草履姿の銅像はまさに、心襞に染み込んだわたしたち日本人の美学(美意識)や情感(感傷)への郷愁を象徴しているのではなかろうか。この銅像が鹿児島ではなく、「反新政府気分」に覆われていた江戸が姿をかえたばかりの東京のど真ん中に建立され、庶民に親しまれたことがそのことを示していると思う。西郷は、西南戦争から12年後の明治22年には大赦により名誉が回復され、正三位が追贈された。
歴史は科学ではない。歴史はその多くが、勝者の側つまり新しく権力を握った側から書かれるのが常であるから、偏ったものになりがちである。かくして真実の一半は、歴史の闇のなかに葬り去られる宿命にある。当時の当事者に現実的にどれだけの選択肢があったのか、それを後世の現在を基準にしてではなく、あくまでも当時の状況と価値観に依拠して判断してみることも必要である。「後知恵」で過去を一刀両断することは簡単である。しかし、それでは、全身全霊をかけて決断し行動した、その時の生身の人間の苦悩は理解できないだろう。愚考するに、歴史の闇の中に真実を少しでも掘り出し、それに光をあてる努力をするのが後世にある者のつとめではないか、と。これ実は一老人の感傷に過ぎないことと知りつつも、それぞれの「大義」のために斃れていった先人たちの無念への思いは断ちがたく、歴史に敗れ「正史」の陰にひっそりとたたずむ彼らの足跡を辿っている所以である。最近、「幕末史」(半藤一利著、新潮社)、「戊辰雪冤」(友田昌宏著、講談社現代新新書)、「幕末維新 消された歴史」(安藤優一郎著、日本経済新聞社)など「敗者」の側から幕末維新史を振り返る著作が出版され出したことはまことに心強い。
(「丁丑感舊の旅」・了 2009.11)
主な引照文献 司馬遼太郎「翔ぶが如く」文芸春秋
佐々友房「戦袍日記」ほか西南戦争に関する青潮社刊の復刻本
財津永記「今にし思う西南戦役 丁丑感旧録語りかける」
福沢諭吉「明治十年丁丑公論/瘠我慢の説」講談社学術文庫
渡辺京二の明治維新に関する一連の評論
桶谷秀昭「草花の匂ふ国家」文芸春秋
江藤 淳「南洲残影」文芸春秋
圭室諦成「西郷隆盛」岩波新書
井上 清「西郷隆盛」(上・下)中公新書
猪狩孝明「西郷隆盛」岩波新書
小川原正道「西南戦争」中公新書
佐藤誠三郎「<死の跳躍>を越えて」都市出版 など
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。