第三回(2)
薩摩私学校党の決起に際し、これに同調する動きは高知県(土佐派)をはじめ、全国各地にあった。しかし、実際に戦闘に参加した士族勢力は鹿児島県に隣接している熊本県、宮崎県、大分県からだった。これらは地縁や血縁をはじめさまざまな事情からの参加であったが、そのなかで最も大規模な参加は熊本県下からだった。
司馬遼太郎によると、肥後人は薩摩人にくらべたら、はるかに保守性が強く、思想性が高かったようである。肥後人はまず無学無知をいやしんだが、薩摩人は学問教養をさほどには重んぜず、それより男子としての行動の爽やかさと死を怖れない痛烈さを尊ぶ気風があった。薩摩人は議論より直観を、思索より行動を重んじたし、それが肥後人の目には単なる無思慮と軽躁と映ったであろう。そのためややもすれば、肥後人は実践より議論が先行しがちで、「肥後の議論倒れ」と他藩からは皮肉られていたらしい。
さらに司馬は続ける。幕末から維新初期にかけて熊本では、横井小楠を学祖とし、文明開化を主唱して新政府と同じ思想を唱導する実学党、旧細川藩の実権を握っていた、いわば佐幕派であった学校党(藩校時習館の教育を受けた旧士族階級の出身者が多く、かれらは、日本的な儒教倫理と旧社会の秩序を最高のものとしていたために、それを打破していわゆる文明開化を興そうとする太政官の革命性をもっとも憎悪し、その憎悪をばねとして結束し、決起した。この意味では、反革命党であったといえる)、神かかり的なまでに純粋化した神道を実践する敬神党(神風連)、ルソーの思想に心酔した宮崎八郎(のち中国革命運動支援で活躍した宮崎滔天の長兄)を中心に結集した民権党などに分れ、一国一城的な論陣を張っていた。ただ、主義主張は相互に水と油のようにかけ離れていたが、明治維新の結果が彼らの考えていたものとかけ離れていたことに対する不満(反政府熱)という点では、共通してしたのである。このうち敬神党は、西南戦争の前年に早々に決起してしまい、熊本鎮台を襲って県令ほかを殺したあと自刃した(「神風連の乱」)。そして、議論倒れのためにこれまで薩長土肥に先んじられたことに対する忸怩たる思いが、薩軍の決起にいち早く反応し、学校党は熊本士族隊(1500名)として、民権党は熊本協同隊(当初40名、のち400名に増え、宮崎の飫肥隊と並んで他県部隊のなかで最強とされた)として、旧相良藩士らは人吉隊としてそれぞれの「夢」を託して、請われもしないのにむしろ大挙進んで、しかも別々に薩軍に参加したというのが実相であろう。
それにしても、民権党の義挙参戦は思想的にはわかりにくい。宮崎八郎が用意した挙兵趣旨書には、「明治六年以来、政府政を失し、・・・(腐敗暴政はとどまるところを知らず)・・・」よって自分たちは西郷に同心協力し、断然暴政府をくつがえそうとする、それによって「内に千歳不抜の国体を確立し、外は万国対峙の権利を恢復し、全国人民と共に真成の幸福を保たんと欲す・・・」とあり、自由とか民権とかいう言葉は一語も出ていない。宮崎はそのとき仲間に、「これぐらいが丁度よかろう(自由とか民権とかいう言葉を使っても木強剽悍だけが取柄の薩人には判るまい)」と言ったと伝えられている。さらに「まず西郷に太政官政権を倒させ、しかるのちに西郷を倒して民権の世にするのだ」ということを仲間に公言していたとも言われている。
薩軍に参陣してみると、彼らは薩軍首脳からほとんど相手にされなかった。戦場が地元だったので、せいぜい道案内程度にしか思われていなかったのである。あらためて彼らは、薩摩人の独善的な性根に憤慨したが、彼らはそれくらいのことで志を枉げるようなことは考えつきもしなかった。自分自身の「大義」に殉ずることは肥後人の美学であり、肥後人の思想性の「堅さ」を示すものでもあったからである。私も肥後人の端くれとして、このような「思想性」を受け継いでいるのだろうか。
西郷は、なぜ私学校党の挙兵を抑えきれなかったのか
薩摩士族の決起は、そこに至るまでに多くの要因が複雑に絡み合い、ひとつの大きな「流れ」の結果だったとも考えられる。遠因として考えられることは、士族の不満が鬱積していたことである。そもそも明治維新を実現させたエネルギーは、当時の帝国主義的な列強からの開国圧力に対する薩長雄藩の反発(攘夷エネルギー)であった。ところが新政府は列強の強大な軍事力を目の当たりにし、攘夷の非現実的なることを悟り、早々に開国してしまった。いわば「攘夷エネルギー」が置き去りにされてしまったのである(司馬遼太郎)。廃藩置県によって既得権益を剥奪されたことと相俟って、全国士族の不満は爆発寸前の状態であった。そのうえ、当時の明治新政権(太政官)の権力基盤はいまだ脆弱であった。武力の面でも、百姓からの徴募兵が主体をなす鎮台は、士族たちから軽侮されていた(前述)。政治勢力という面でも、実態は反対勢力とほぼ同じ水準であったようで、不平士族から見たら太政官は何時倒れてもおかしくない状態であったことが挙げられる。現に、明治7年には佐賀の乱が発生しており、西南戦争の前年の明治9年10月には神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)、萩の乱(山口)、旧会津藩士の乱など、全国各地で反乱が続発している。これらは小規模だったため各個撃破されたが、薩摩が立てば、反乱の火の手は全国に広がるであろうとの懸念は、実は太政官側にもあったのである。
近因は、大警視川路利良が組織派遣した、慰撫・離反工作を意図した帰郷団が、鹿児島の私学校生徒(士族)たちをいたく刺激し、私学校生徒たちが帰郷団を逮捕して西郷暗殺の「蜜命」を「自供」させ、政府の火薬庫を襲い、武器弾薬を強奪するという事態になったことである。桐野利秋(壮士風の快男児ではあるが戦略らしい思想のかけらもない桐野をなぜ西郷が偏愛したのか不思議とされている)をはじめとする強硬派に主導され、西郷といえども発火点に達した私学校生徒たちを抑えることはもはや不可能であった。新政権の実質的な主導者は同じ薩摩の大久保利通であり、その忠実な権力の行使者である川路利良も薩摩人であったことが「近親憎悪」的感情を掻き立てたこともあったであろう。後世、この対立の全体像をわかりにくくしている事柄のひとつに、対立の両陣営が、明治維新の中心的役割を果たした同じ薩摩藩士同士であるということがある。「革命の成果」に対する思惑の違いであろうか、それとも「革命の理念」そのものに違いがあったのか。いや、わが国近現代史最大の内乱となったこの対立の本質は結局、西郷と大久保の価値観の違い、いや気質そのものの違いであったと見る史家もいるくらいだ。現に木戸孝允は、「西南戦争」を西郷と大久保の「私闘」にすぎないと見ていた。
ちなみに西郷の下野の直接の原因は、彼の「征韓論」が太政官において容れられなかったことであるが、実は論争で争われたのは「征韓」そのものの是非ではなく、時期であり、方法に過ぎなかった。しかも、西郷の考えは、世上いわれている「征韓論」とは中身が少し違うようだ。まず朝鮮に使節を送り相提携し列強(特にロシア)に当たるべく道義を尽くして説くものとし、そのために使節は寸鉄をも帯びず一兵たりとも伴うべからず、たとえ殺されようともその遣韓使にはぜひ自分を当ててもらいたいというものであった。いずれにしてもこの建議は、まるで死に処を求めるようなものであるところからみても実は西郷の心中にわだかまっている鬱屈の表出であったとの解釈もできるだろう。西郷の心底には、彼が主役となって幕府を斃して誕生させた新政府の実態は、西郷から言わせると彼の「革命」の理念とはかけ離れた堕落と腐敗の再生産そのものであり、廃藩置県によって既得権益を剥奪された士族たちの「何のための革命だったのか」という不満に対し、申し訳ないという思いがあったのではなかろうか。西郷の真意は姦臣の牛耳る政府(有司専制)の打倒であり、さらに天皇親政への期待であったとする学者もいる。ただ、西郷が不平士族を私学校に組織化する動きに反対しなかったのは決して反乱を意図したものではなかったようである。先述の「置き去りにされた攘夷エネルギー」を、当時、日本最大の外部脅威であったロシアの南下に備えこれを温存し、いざというとき中核となる武力として利用しようという遠慮深謀であったのかも知れない。そのためか、西郷は私学校生徒たちとの接触を避け、田夫野人同然野山を渉猟して狩に明け暮れていた。しかし、時の勢いで私学校生徒たちは政党化し、沈静化を期待した西郷の思惑と違った方向へ奔流して行った。私学校生徒たちの暴発を知らされたとき西郷が発した第一声は、「しっまった」ということだったという。その後は、狂奔となった流れのなかで西郷は薩軍挙兵の大義名分(象徴)そのものに担ぎ上げられてしまった。倒幕・王政復古、廃藩置県という時代を動かす大事業を51年の生涯でともかくもやり遂げた西郷はこれも宿命かと諦観し、むしろ澄み切った心境で「そいじゃ、俺(おい)が身体はおはんたちに上げ申そ」ということになったのであろう。西郷という個人はこのときすでに死んでいたのである。西郷は、グッド ルーザー(good looser)という自己の美学に殉じて散華したのである、と言ってしまえば単純化しすぎだろうか。
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。