第二回(2)
翌日は、私が少年時代を過した浜町(矢部町を経て現山都町に町名変更)を訪ねた。薩軍側(中核は熊本隊)が木山・御船戦で破れたあと、人吉へ山越えして敗走したルートである。5ヶ月にわたる悲惨な敗走(ほとんどが峻険な山岳部)の始まりであった。御船町の妙見坂でも激戦が展開されており、妙見坂の旧道沿いにその旨を記した記念碑が建てられていた。近くの墓地のなかには、薩軍兵士の墓もあった。余談になるが、私の妹が嫁いでいる家の墓地もすぐ近くにあり、「正義」をかけて戦われた激戦地に、そこで武運つたなく斃れた兵士たちとならんで、地元の人びとも永遠の眠りに就いている、この人間の営みの不思議さに思いをいたす。
浜町の中心地にある造り酒屋(備前屋)に、西郷隆盛は数日滞在したあと馬見原へ向かっている。薩軍幹部は浜町で軍議をひらき、多数の死傷者で欠損した隊の組織を再編成した。隊の呼称も奇兵隊、振武隊、正義隊などと、威勢がよく士気を鼓舞するような名称にあらためられた。あわせて、各隊長に若手の実力者が当てられた。さらに、天険の要地人吉に籠もって退勢の挽回をはかることも決定された。備前屋には薩軍本営となった旨を示す標柱等は何ひとつなかった。店番をしていた若者にも聞いてみたが、その類の話はなにも知らなかった。馬見原への途中の「男成」という集落の山中に阿蘇神社につながる男成神社という古い神社があるが、記録によると、戦死・負傷者続出のため隊士が激減した熊本隊も、この神社で戦死者の霊を祀り、隊の再編成をしたといわれている。折から弥生の候、境内には桜花が爛漫と咲き誇っていた。古閑俊雄は一首を詠じた。「駒とめて払ふも惜しく散る花に さくら織りなすしたたれの袖」 茶畑のなかの神社に通じる小道を辿っていると、表に「日向往還」、裏に「薩軍砲台跡」と記した小さな石の道路標識があるのを偶然発見した。しかし、神社の境内にも、その付近にも西南戦争関連の標識などはそれ以外一切なかった。敗走する者への冷たい風雨と思い重ねるのは、思い過しだろうか。
これから薩軍と熊本諸隊は、馬見原から胡麻山を越え人吉へ抜け、そこからさらに椎葉村を抜けて鹿児島、宮崎、大分方面へと敗走が続くのである。弾丸も糧食も極端に不足し、戦死者を野に残し、負傷者をかかえての敗走は悲惨そのものであったといわれる。加えるに、熊本隊のなかには家族を官軍の占領地に残すに忍びず、妻子ともに険路を行軍してきた者もいた。佐々友房は漢詩一篇を作って、敗軍の行路の悲哀を詠いあげた。「雲脚遥かに樹影に連なって沈み 熊城は隔てて数峯の陰にあり 敗軍並びなす離郷の恨み 風雨満天将士の心」 熊本諸隊はついに8月中旬、西郷の解散命令を機に宮崎県北部の長井村で官軍につぎつぎに投降することになる。ここで特筆すべきは、熊本民権党の協同隊の終末である。そのときリーダーであった崎村常雄は、西郷の解散令への対応の全員合議のなかで噴出した自殺論や死闘論の激論を抑え、戦時捕虜になることを決した。「われわれは敗れた。敗れた以上、敵に対し、一兵一士といえどもこれを殺し、これを傷つくるは、道ではない」として死闘論を否定し、さらに「もしそれ従来の習慣になずみ、屠腹闘死の醜態をきわむるに至りては、独りわが日本国の恥辱たるのみならず、わが党の素志にも反する」として切腹論をも退け、さらにむしろ捕虜になるほうが文明的であるとした。この時期にすでに、法治主義思想が認識され、それに自分たちの運命を託そうという人びとがいたことに驚嘆する。
そのあと、西郷隆盛はじめ薩軍は、四面楚歌さながら死地をさまよった。「故郷で死にたい」との首丘の一念から、宮崎県北部の可愛岳(えのたけ)で兵員数、火器ともに隔絶凌駕する官軍による十重二十重の重囲を奇跡的に突破して、九州の脊梁をなす山岳塁壁を縫ってなんとか出発点の鹿児島にたどり着いた。暴発当初一万人(その後、追加募兵や薩党諸隊の参加により累計は3万人に達した)を越えていた薩軍側は、九州の山野に累々と屍を晒しあるいは官軍に降参し、西郷を含め最後370余人にまで減じていた。しかし彼らはついに力尽き、9月24日朝、6万におよぶ官軍包囲隊の総攻撃による砲煙弾雨のなか城山で最後を迎えた。かくして、近代日本最後で最大の内戦は幕を閉じたのである。
●坂田晃司の晴登雨読人コラム・バックナンバー●
1935年熊本生まれ。ラウム代表・池辺君の熊本済々黌高校時代の同級生です。現在は京都市内在住。滋賀のメーカーをリタイア後、健康づくりのため、また病気がちであった青春時代を取り戻すべく「山登り」を趣味としています。
私は、山登りも一種の「旅」である、と思っています。主として自分の足で、普段ひとの行かない奥地や高所に出かけ、大自然の営みを観察する、厳しい自然環境を肌で感じる…これら「非日常的」な行為によって得られる感動と達成感は、「非日常性」との出会いという意味では、本質的に普通の旅と同じものではないでしょうか。加えて、自分が越えてきた重畳たる山嶺の縦走路を振りかって見るとき、私はいつも、人間の足というものの偉大さにつくづく感じ入ります。二足歩行を侮ること勿れ、大袈裟にいえば人生そのものが、この一歩一歩の積み重ねによって紡がれているのだと言い切ってもよいでしょう。
熊本が生んだ明治の大ジャーナリスト・池辺三山の苗裔である池辺三郎君の、DNAに刷り込まれた編集者としての鋭い「嗅覚」によって、私が手慰みに折々書きとめていた駄文のありかがいつの間にか嗅ぎつけられ、その一部がこのサイトの一隅を汚すことになりました。恥をしのんでわが山旅のつれづれなる思い―「化石人間」の乾板に映った色褪せた心象風景に過ぎませんが―をさらけ出す次第です。