、大通りから少し入った、道と道に挟まれた三角州のような場所に、お気に入りの喫茶店があった。チェックのテーブルクロス、決して美味しいとはいえないコーヒー、応接間のようなふかふかソファ、ほこりをかぶった置き物が飾られたその空間は、極上のなごみ空間だった。窓際のその席にはいつもベレーの爺。私も彼に習って、(バイト中にもかかわらず)、文庫本とコーヒー一杯でえんえんと至福の休憩タイムを過ごした。
帰り道、植え込みからのぞきこむと、まだ爺はそこにいて、「はあ。はやくじじいになりたいなあ」などとわけのわからないことをつぶやきながら、帰路についたものだ。
友だちと「ちょっと喫茶店でも」ではない、うちあわせでも、オゴリでもない、「おひとりさま」の時間をのろのろと楽しみ「ひとり悦に入る」、そんな喫茶店の使い方を知ったのは、あの頃だった。
何年かたって、あの場所を一度だけ訪れたことがある。あの店はもはやなかった。ベレーの爺もいなかった。

れから、いつの間にか、私はあの喫茶店に似た店をさがすようになった。
名古屋は喫茶文化の街といわれる。確かに人口に対しての喫茶店の割合は全国一高いらしい。が、悲しいことに、あの喫茶店のような純粋名古屋派ともいえる喫茶店は時代の波とともに減少の一途をたどっていることは否めない。カフェではなく、喫茶店。タオルのおしぼり。頼んでもないのにおつまみつき。過剰なモーニングサービス。家族経営。メニューに小倉トースト。冬季はオレンジエード、
あの場所と時間をいつか取り戻す日まで、まぼろし喫茶探しの旅は果てしなく続くのだった。


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